“愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一②

最後まで手の内を明かさなかった「転調の魔術師」

Text:都鳥流星

2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。

滝沢が90年代に起業した音楽制作会社ハウス・ティーの「カラオケ事業」で得た利益を、後進の育成のために役立てようと、レコード会社へ売り込んでメジャーデビューさせるために育てていたシンガー・ソングライターの山上ジュンに話を聞いたインタビュー第2回。

前回は、滝沢との出会い、そして衣食住の面倒をみてもらいながら滝沢との1日8時間の「音楽談義」に付き合った3年間の思い出、さらに滝沢の代名詞である「転調」の封印など、師弟ならではの知られざるエピソードの数々を語ってもらった。

● “愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一

今回は、滝沢のことを「作曲の師匠」と慕っていた山上が、実際にプロデュースされていた時の様子、そして滝沢との別れ、滝沢の音楽性、さらに「昨今のシティ・ポップブームと滝沢洋一」についても熱く語ってくれた。

山上ジュン氏

──山上さんたちの演奏や歌の練習は、スタジオを借りたりしていたのでしょうか?

山上:当時のハウス・ティーは、喫茶店の居抜き物件も借りていて、カウンターと厨房がそのまま残ったような、地面がコンクリむき出しになった空間があったんです。そこで歌の練習をしたり、デモ・テープを録音したりしていました。

前は「もっと声出して歌えよ」って滝沢さんに言われていたんですが、そのうち「うるせぇよ!」と言われはじめました(笑)。今思うと、声が出るようになってきたのかなと。滝沢さんなりの気づかせ方だったのかもしれませんね。

──その後、山上さんたちのライブもハウス・ティー主催で何回か行われていたということですが、なぜ滝沢さんのプロデュースでメジャーデビュー出来なかったのでしょうか?

山上:上手くいっていたはずのカラオケが激安時代に入ってきて、事業の売上も下降気味になってきたんですね。そして、経営に別の人が入ってきたあたりから、滝沢さんが“そろばんずく”になってしまって。

そのうちにスタッフたちも去って、僕もお金の面について行き違いがあったりして滝沢さんと距離を置くようになってしまいました。僕は、滝沢さんとの縁が切れたあとの98年にキューンソニーからシングル「負け犬」でメジャーデビューしたんです。

──いろいろあったかとは思いますが、今も滝沢さんが「作曲の師匠」であることに変わりはありませんか?

山上:変わらないですね。故郷の島根に帰ったあと、元ハウス・ティーの関係者から「山上、滝沢さんが亡くなったぞ」と電話で知らされました。今思うのは、良い表現者=良い経営者とは限らないということですね。

今でも、あの毎日のように交わしていた音楽談義のことを覚えていますし、貴重な時間だったと思います。

僕は、昨今世界で流行っているシティ・ポップについて、いろいろなアーティストの名前が取り上げられていますけど、「滝沢洋一こそシティ・ポップの先駆者だ」と思っています。そして、「滝沢洋一は誰よりも早くシティ・ポップを見限っていた」とも思っているんです。

今聴いても、とにかくリズムの切り方がうまいんですよ。帰国子女ならではのノリを感じるというか。だから青山純さんや伊藤広規さんがついてきたんだと思いますね。

滝沢さんはずっと「日本のAirPlay(ジェイ・グレイドンとデイヴィット・フォスターの期間限定ユニット)」だと思っていたんですけど、今では「日本のスティーリー・ダン(主にドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるロックバンド)」だったと本気で思いますね。本人は直接おっしゃらなかったけど、かなり影響を受けていたと思います。

でも、滝沢さんのメロディや詞からは、いわゆる「四畳半フォーク」の要素も感じるんですね。だから、滝沢洋一は「四畳半シティ・ポップ」(笑)。外交官の息子として生まれて、海外生活が長かったから日本人離れしたコード感覚もあるんですけど、日本に帰ってきて60年代に日本で聴いていた音楽からの影響もかなり大きかったんじゃないかなと思います。

──『レオニズの彼方に』がフォーキーに聴こえる理由はそこにあるのかもしれないですね。最後に、天国の滝沢さんへメッセージを贈るとしたら、どんな言葉をかけたいですか?

山上:自分が今まで音楽に関わる人生を送ってきたことを振り返ってみると、もう「感謝しかない」ですね。

でも、最後まで「コードと転調の魔術師」である滝沢さんは、その手の内を明かさなかったんです。聞いてもいつもはぐらかすんですよ(笑)。置換コードのテクニックとか、聞きたいことは一杯ありました。

そして、自分自身が自由にやっていた転調を僕がやると「転調するな!」って怒るんですよ(笑)。もしかすると、これからは転調の時代じゃないということを捉えていて、時代を見た上で助言してくれていたのかもしれないですね。実際に、その通りの音楽シーンになりましたから。いつも時代を必死に捉えようとしていた音楽家だったと思います。

ひとつ、滝沢さんの印象に残った言葉があって、それは、

「音楽はメロディとアレンジさえ良ければ成立する」

作詞家の方には失礼な言葉ですが(笑)、自分の作った曲にプライドと自負があったからこそ、こう言ったんだと思いますね。

互いの家族よりも長い時間をともに過ごしたであろう山上は、20歳も年上の滝沢を「洋一、洋一」と呼び捨てするほど親しく接していたと語る。そして、山上はギター、滝沢はピアノと、作曲に使う楽器が違っていたがために、お互いを尊敬し合っていたという。

仲睦まじい師弟のエピソードを聞いたことで、等身大の滝沢洋一がより鮮明に浮かび上がってきたように感じた。

他にも、滝沢独自のコード進行のこと、サラダうどんしか奢ってもらえなかったことなど、楽しいエピソードも沢山聞くことができた。

山上へのインタビューによって、『レオニズの彼方に』で女性らしさを感じさせる滝沢の楽曲が、幻のセカンド・アルバム『BOY』になって急に雄々しさを全面に出してきた理由が少しだけ分かったような気がした。 

そして、ビートたけしへ提供された名曲「CITY BIRD」(滝沢のセルフカバーヴァージョンは「シティーバード」)の詞を今あらためて読むと、滝沢が山上と毎晩のように交わしていた「音楽談義」の日々を“予言”していた歌詞なのかもしれないと思えてくる。

今後、滝沢の曲を歌うことについて「機会があれば是非歌いたい」と語っていた山上。この歌を、愛弟子である山上ジュンの声によって聴くことができる日が来ることを願わずにはいられない。

“Yes I live in Tokyo
空見上げ 語った夢
抱きしめて飛び立つのさ
いつか高く 遠く”
 
(滝沢洋一「シティーバード」 作詞:滝沢洋一・山川啓介)