ベン・グリオン ハウス
📌Ben-Gurion House in Tel Aviv
"建国の父"と言われたイスラエル初代首相を務めたベン・グリオン(Ben-Gurion)のテルアビブにあるプライベートハウス"Ben-Gurion House"へ行ってまいりました:)
本(イスラエル全史:マーティン・ギルバート著)や色々なサイトを読みながら、書いたので色んな情報が錯誤しているかと思いますが、べングリオンハウスに行く際の予備知識として、または詳しく調べてみようかなと思えるきっかけになれば、、、!!
あたたかい目で読んでいただけましたら幸いです!
べン・グリオンハウスとは
1930-31年の間に建てられた、プライベートハウスだそうです。
行って驚きだったのが、私の偏見になってしまいますが、建国の父とまで言われるお人ながら、一般人と変わらね大きさの家だったということです。(本宅はもちろん大きいそうです。)
1階にはリビングルーム、キッチン、彼の奥さんポーラの寝室、Renana's roomと呼ばれる彼のベットルーム兼シェルター部屋でした。sinai campaign(シナイ パレスティナ戦線)、Six-Day War(第三次中東戦争)の際に実際に活躍しました。
訪れて分かることは本当にたくさんの国と交流があったのだなと家に飾られいる置物から感じられます。日本人形も飾られており、親近感が湧きました!:) さらに、びっくりするほど沢山の本が貯蔵されており、本の虫なのが一目見て感じられます。
ベン・グリオンってどんな人
簡潔に説明すると、、
1948年にイスラエルの建国を宣言、初代首相を務めたポーランド生まれのユダヤ人で、シオニズムの指導者として活動した「イスラエル建国の父」と呼ばれるイスラエルを語るべくして欠かせない人物です。
もう少しだけ詳しく彼について知っていきましょう!
べン・グリオンからみる歴史
1886年10月16日ダヴィド・グリューン(David Grün)としてポーランドに生まれました。1906年にパレスチナのヤッフォへ移り住み、最初はオレンジ農業などを行っていたがベンツビ(Ben-Zvi)と共に*1ハショメル(HaShomer)(*1パレスチナ入植者による自警組織)に志願し、最初*2シオニスト(*2ユダヤ人の国を祖先の土地に新たに建国することを目指す復興運動)の新聞『アハドゥト(労働)』で編集部員として働き、政治活動を始めると共にヘブライ語の名前ベン・グリオン (דוד בן גוריון) を使い始めました。この名は中世の歴史家ヨセフ・ベン・グリオン(Yosef ben Gurion)からとったそうです。
1914年にパレスチナにおける政治活動を理由にベンツビとパレスチナを追放され、1915年にパレスチナにおける政治活動を理由にベンツビとパレスチナを追放され、ニューヨークへ渡りシオニズムを呼びかけるへハルツ(Hechalutz)を立ち上げました。そこで、ロシア生まれのポーラ・ムンワイス(Paula Munweis)と出会い1917年に結婚し3人の子宝に恵まれました。
また、パレスチナにおけるシオニストの計画に対して、英国政府からの支援が得られるように働きかけ、その成果が第一次大戦中に出されたバルフォア宣言です。1918年になると、イギリス陸軍のユダヤ人部隊に志願し、一家は第一次世界大戦後イギリスの委任統治領となったパレスチナに帰還しました。
第二次世界大戦の間、ベングリオンはパレスチナにおけるユダヤ人の政治的支配権を一層強く主張し、多数派のアラブ人の支配権を否定しました。1947 年国連総会はパレスチナ分割を賛成で採択し、これはシオニスト外交の勝利と言われており、パレスチナのアラブ人はこの分割に不満が残らないわけもなく戦争開始の合図へとなってしまいました。
1947 年11 月 29 日から 1949 年1月 7 日まで行われた長いイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)の中、1948 年 5 月 14 日にイスラエルの建国が宣言されました。また、1949年エルサレムを首都とし政府機関を移しました。
1953年に辞任し、ネゲヴ砂漠のミドレシェト・ベン=グリオン(Midreshet Ben-Gurion)(Sde-Bokerとも呼ばれる)のキブツへ移り住みましたが、1955年に国防相の首相として政界へ復帰しました。ですが、1963年に個人的な理由として政界から離れました。
Sde-Bokerにある”Ben-Gurion's hut”で妻と退職後を過ごしました。妻ポーラは1968年に帰らぬ人となり、べングリオンも後を追うように1973年12月1日に亡くなり、妻と共にSde-Bokerで埋葬されました。
最後に
考察いうより見解と言った方がいいのか私の主観がまるこもりな感想です。
べングリオンについて調べれば調べるほど、イスラエルの礎を作った人なのだなと深く感じました。また、彼の行動力や頭の良さはべングリオンハウスへ行って一目でわかる膨大な本の数から努力が見られ、私のボキャブラリーが少ないのもありますが、「凄い、、」と言葉が素直にこぼれました。
建国を発表した際のスピーチのメモや日記というよりスケジュールのような記録を残した一部が置いてあったり、当時のまま置いてあるのもありますが、豪華なわけでもなく生活に必要なのものだけが置いてある質素な家についこないだまで住んでいたのではないかと思う親近感を感じられました。
実は初め、Sde-Bokerとパンフレットに書かれていた為、ネゲヴ砂漠のミドレシェト・ベン=グリオン(Midreshet Ben-Gurion)のこととは気がつかず、ネットで調べ分かりました。次にSde-BokerのBen-Gurion's hutにぜひ行きたいと思い調べたのですが、英語のサイトしか見つからず(私の探し方が悪いのかもしれません。。)べングリオンが日本人に馴染みが少ないのだろうなと感じ、少し寂しくなったと、実際に足を運んで見に行きたいという気持ちが強まりました。
イスラエルの約60%が砂漠地帯が占めており、なぜこんな砂漠地帯の真ん中に移り住んだのだろう、豊かな土地に住めばいいのにとゆとりな私は思ったのですが、べングリオンは砂漠地帯に新しい国を開拓することこそGreat service だと信じていて、その意思を継いだ現代のイスラエルの農水産業GDPの高さが証明しており、技術の高さに圧巻です!
Ben-Gurion's hutは彼の意向により当時のそのままの状態で博物館として残されているそうです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?