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アリヤー(帰還民)でつくられたイスラエル

イスラエルに来る前、まわりの人にイスラエルは白人系が多いよと聞いていました。たしかにテルアビブのような大きな街には比較的ヨーロッパ系の人が多いです。


(もちろん居住している地域によってはアラブ系が多くモスクが建てられている地域もあります。)
ここキブツLahavの住人もヨーロッパ系が多いです。

学生時代の歴史の勉強不足で知らなかったのですが、中東なのに白人系が多いのは世界中に散ったユダヤ人がパレスチナ(今のイスラエル)に帰還しようとシオニズム運動を起こして移住してきたからだとのこと。その移住することや移民をアリヤーと呼びます。

アリヤーの波は大きく分けて5つありそれが今のイスラエル社会の成り立ちに大きく影響しています。

〜第一次アリヤー〜
19世紀の終わり〜20世紀の初頭に、ロシア帝国によるユダヤ人迫害と虐殺(ポグロム)のため東欧も含め約300万人がロシアを離れ7割はアメリカへ、あとの一部がイスラエルへ逃れました。

〜第二次アリヤー〜
1904年〜1924年ロシア革命後にロシア、ポーランドから大規模移民がイスラエルに。一番最初のキブツが作られたのもこの時期です(1910年)。
第一次世界大戦 (1914年) が始まった頃はパレスチナのユダヤ人口は85,000人になりました。

〜第三次アリヤー〜
さらにイギリスがユダヤ人のイスラエルへの帰還を支持する表明を出したため(バルフォア宣言) 1919 年から1923年の間にロシアから約3万5,000人が移民。
その人たちは開拓者として社会経済基盤をつくり農業を発展させました。農村に独自の新たな協同組合式の入植村(キブツやモシャブ)を作り、家屋や道路建設の労働力を提供しました。

〜第四次アリヤー〜
次の移民の波は、1924年から1932年の間に起こり、6万人が主にポーランドから主にテルアビブ、 ハイファ、エルサレムに定住し、小ビジネス、建設事業、軽工業を始めました。

〜第五次アリヤー〜
第二次世界大戦前の最後の大移民の波はヒットラー政権になった1930年代に起こり、約16万5,000人が移住しました。その多くが専門家や学者で、西欧や中欧からの初の大規模移民でした。教育、技術、経験によってビジネスの水準が高められ、都市や農村地域の環境が改善されて、ユダヤ人社会の文化生活が豊かになりました。

1948年の建国から最初の4ヶ月間に、約5万人(多くはホロコースト生存者)がイスラエルにたどり着きました。


そうして1951年の終わりまで に、総計68万7,000人もの人がイスラエルに入国しましたが、そのうちの30万以上の人々がアラブの領土からの難民だそうです。その結果、イスラエルのユダヤ人口は倍増しました。

イスラエルは建国から71年しか経っていませんが、ユダヤ人の歴史は長く、長い間支配され、離散し、また取り戻しの繰り返しです。

一度散ったユダヤ人達が集まったときに言語も違ければ文化も違うのに、宗教という共通点で一致団結する力はすごいなと思います。

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