見出し画像

脊髄反射だとしても

他愛も無い話をダラダラとするのが昔から好きだった。

例えば放課後の教室。講義の合間の学食。移動中の車や新幹線。
それは恋バナであったり、進路の話であったり、好きなバンドやお笑い芸人の話であったりしたが、いくつもの話題から共通項を見つけて繋げていったり、その中で思いもよらないエピソードが引き出されたりする“連鎖の快感”が心地良いという感覚がずっとある。

世間話をするタイミングというのは、実はそれなりに多い。その時々で適切な話題を適切な長さで話せるというスキルが、社会に出てここまで重宝されるとは思っていなかった。
自分としては連想ゲームの延長のような感覚なのだが、様々な話題を繋げていくためにはある程度の幅広い知識や雑学が必要で、それらをまとめて「教養」と呼ぶのであれば、身に付けようとしてきた日々は無駄では無かったし、これからもたくさん学びを得ていきたいと思う。

とまぁ、こんな真面目な話がしたかった訳ではなく。
自分の小ボケをサッと拾ってくれたり、予想外の面白い返しをしてくれる人がやっぱり好きだなという話で。笑

大喜利得意な人はカッコ良いし、言葉選びのセンスが近しい人に惹かれるし。でも、そういうのってある程度仲良くならないと分からないから、写真とプロフとネコ被ったままのメッセージのやり取りなんかでは全然分からなくて、興味が湧かないよなぁーって思ったりする。
「そうかそうか、つまり君はそういう奴だったんだな」ときたら「エーミール!」と言って欲しいし、「諸行無常だね」と言ったら「祇園精舎の鐘の声」だし、「あたり前田の」ときたら「クラッカー」、「黙れ小僧」ときたら「お前にサンが救えるか」なのである(?)。

例えその返しが脊髄反射だったとしても、会話のラリーが続いていく快感は何物にも代え難いし、それが自然にできる友達は大切にしたい。(少し話は逸れるが、IPPONグランプリにおけるバカリズムの「香典PayPay」は、あまりにも芸術点が高くて面白いを通り越して感動した。大喜利のハイレベル回答は芸人の真骨頂という気がする)

しかし、ふと思う。これが積み重なっていけば、いずれはオヤジギャグを連発する寒い中年に成り果てるのではないだろうか。聞こえてきた単語に関連する言葉を反射的に返す、悲しきモンスターが爆誕するのではないだろうか、と…。一抹の不安が胸をよぎるのであった。

おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?