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寂しさと言うバケモノ



つい先日、このnoteを読んでくれた知人から直接感想を聞ける機会があった。

思考、構造、感性の話は大好きな人間なので素直にこう言う話をしてもらえるのは正直かなり嬉しい。

話を聞いていて面白いなぁと思ったのはその人が私が書く文章に出てくる「寂しさ」を一つの物体として捉えていた事だった。

「全部の話に姿、形を変えて寂しさが出てきたからなんだか一つの生き物みたいだった」と
すごく独特な捉え方だけど的を得ていて、なんと無く自分が伝えたかった事が伝わっている気がして嬉しくなってしまった。

ちゃんと私の思考を咀嚼して、相手に伝わる事の面白さと言ったらそれはもう最大限の喜びだ。

その後もその人なりの解釈や感じた事を聞きながら色々と話していくうちに

「愛」と「寂しさ」に自分は異様に執着している事に気がついた。
確かに私は、剥がれ落ちたカサブタみたいな脆い愛を大事に、それは大事に抱き抱えながら生きている。
それを失わないように最大限の注意を払いながら慎重に慎重に生きているのだ。

「君はきっと楽しい、幸せだって気持ちのままびゅーんって高い所まで飛んでいけるはずなのにどうしても寂しいに着地するんだね」

言われた言葉にぐわっと心臓が掴まれた気がした。
確かにその通りなのだ「寂しい」から目を逸らして、幸せだと感覚を麻痺させながら生きる事だって不可能じゃない。
ただそれが本当に怖いのだ「失う」「終わる」「無くなる」自分の手にあった幸せがいつか消えてしまう恐怖に打ち勝てず、それならはじめから「寂しい」や「悲しい」に照準を合わせておけばきっと傷つく事は無いだろうと言う自分なりの対処法。

所謂、不幸中毒の臆病者。

綺麗に磨かれた姿見を目の前に立てられた様な、自分の見たくない部分をハッキリと見せつけられた様な感覚だった、けど何故だかスッキリとした気もする、私は誰かに言葉で指し示して欲しかったのかもしれない。
寂しさと言うバケモノに私はこれからも飼い慣らされ続けるだろう、ただいつか、この人生でそのバケモノを捨て置いて、幸せなまま高くまで飛んでいける様な日が来ればそれはきっと素晴らしい事なんだろうなと思った。




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