凪良ゆう『流浪の月』(東京創元社 2020年)

20/05/15 読了。

2020年の本屋大賞を受賞した作品だ。
作者は凪良ゆう。正直、聞いたことはない。去年の瀬尾まいこ(『そして、バトンは渡された』)、一昨年の辻村美月(『かがみの孤城』)などに比べてマイナーと言って差し支えないように思う。
検索するとWikipediaのページがあり、普段はBL小説をメインに活動している作家らしいことがわかった。男の自分が知らなかったのも無理はないのかもしれない。
作家のことはさておき、本作の話に戻ろう。やはり大賞に選ばれるだけあって、非常に素晴らしい作品だった。

大人になった二人が再開するシーン、更紗が初めて文のカフェを訪れるがそのカフェの名前は「Calico」。知らない言葉が出てくるとすぐに調べる性分なので辞書を引くと、意味は「更紗」。思わずニヤリとしてしまう。
更紗は文の自分に気付いていないような態度に、自分の存在は彼を傷つけてしまうかもしれない、と考え、名乗り出ることをしない。しかし店名。間違いなく彼は彼女のことを覚えているし、悪い記憶にはなっていない。まるで少女漫画を読んでいるように、なかなか交わらない二人にヤキモキしてしまった。

世間的には更紗は大人になっても「被害女児」であったし、文は「ロリコンの異常者」だった。二人の関係は「ストックホルム症候群がもとらした歪な幻想」だった。それ故に二人は社会から途絶され、ずっと孤独を感じながら生きていた。更紗は生きるために打算的に男性と付き合っていたが、このDV男から離れる決意をした時の「それがどれほどのことだ」という言葉は輝かんばかりの勇気に満ちている。強い言葉だ。

文は小児性愛者ではなかった。具体的な病名は明かされないが、断片的な記述から検索すると、「類宦官症」がヒットする。簡単に言えば第二次性徴が来ない病気だ。彼は自身の未成熟な体を恥じる反動で、成長していく同年代の異性を愛することができない。そんな大人の女性を愛することができない自分すら騙すため小児性愛のように振る舞い、足繁く公園に通っていたのだ。そこで更紗と出会う。自分と同じように世界に居場所を失い、孤独な存在と。文が更紗に惹かれた理由はロリコンだったからではなく、自分と同じように社会から途絶された孤独を感じている存在だったからだ。

色々な事件があり、社会は二人に対して再び牙をむく。更紗は「被害女児」になり、文は「ロリコンの異常者」になる。そうして二人は世間を捨てて、二人だけで生きることを選ぶ。その言葉も印象的だ。「わたしたちは、もうそこにはいないので。」(302頁)
「そこ」とは、世間を指す。二人を排斥し続けた世界から離れるのだ。今度は自分の意志で。一人ではなく、二人で。

しかし、たった二人だけの物語かと言えばそうではない。一時的に預かっていた梨花の存在だ。更紗のバイト先の友人の子供で、まだ8歳の小学生だった。物語の現在時刻から5年後のこと、

  去年の冬休み、三人で食事をしているときふいに梨花が泣き出したことがあった。なにかあったのかと訊いても答えず、帰り際にようやくインターネットを見たと言った。ぼくの更紗の過去を知ったのだ。もう会いたくないと言われるのを覚悟したが、
――文くんは、そんな人じゃないのに。
――文くんと更紗ちゃんは、すごくすごく優しいのに。
ぼたぼた涙をこぼす梨花を、更紗は黙って抱きしめた。(308-309頁)

この小説で一番好きなシーンだ。彼らは二人ぼっちではない。理解してくれる人もいる。プロローグとエピローグが繋がっていた演出も憎い。

小ネタ的に取り上げるが、ラストの伏線はずっと貼ってあった。
「シザー・ハンズ」と「トゥルー・ロマンス」。この小説は「シザー・ハンズ」のように、相手を傷つけてしまうがために、愛しているが恋人の前から姿を消す悲哀の物語ではない。トニー・スコット版の「トゥルー・ロマンス」であり、ハッピーエンドなのだ。

2020/05/17 トニー・スコット版の「トゥルー・ロマンス」を鑑賞した。確かに小学生が見る映画ではない。冒頭10分ほどで濃厚なSEXシーンが流れる。しかも相手はコール・ガール。ようは娼婦だ。二人は一晩だけの関係のはずが、恋に落ち、翌日には結婚してしまう。

オタク気質な男が、その愛する女性のためにどんどん内なる自分に従ってタフになっていく。まず彼女の元ヒモであり、麻薬バイヤーの男(なんとゲイリー・オールドマン。さらに言えばゲイリーに銃で撃ち殺されるためだけに登場する人物はサミュエル・L・ジャクソンという豪華っぷり。その他にも端役でブラッド・ピットが出てきたりと、時代を感じるキャスティングだった)を殺す。そして棚から牡丹もち的に手に入れた麻薬を売りさばくことで大金を手にし、二人で幸せに暮らそうという計画を思いつく。
ギャングや警察を巻き込むバイオレンスに溢れた映画で、二人は物理的に傷つきながらも最後は大金を手に入れてメキシコに逃げおおせる。さらには子どもも生れ、ラストシーンはビーチで微笑む家族を映して幕を閉じる。
二人が幸せをつかむまでの過程は非常に泥臭く、バイオレンスでとても純文学の小説に何度も引用されるようなロマンティックなものではないように思う。しかし本作では、「シザーハンズ」のような美しくも儚いバッドエンドではなく、「トゥルー・ロマンス」のように泥臭くとも二人が幸せになるエンディングが選ばれたのだろう。
ちなみに、私がレンタルショップで借りたDVDにはタランティーノ版のバッドエンドは収録されていなかった。本文中にもある通り、「ディレクターズカット版の特典映像」(237頁)らしく、レンタルショップにはあまり出回っていないようだ。しかし、文も更紗もバッドエンド版は観ていないらしい。機会があればそちらも確認したいものである。

2020/05/17 同作者の『おやすみなさい、また明日』(キャラ文庫 2015年)を読んだ。挿絵つきのライトノベルのようなBL小説だ。
私の性自認は男性のヘテロで、いわゆる腐男子的な趣味はない。なので今まで正面からBL小説を読んだことはなかった。長くなるので別記事にまとめようと思うが、『流浪の月』の作者らしい描写の美しさを見れたし、BL小説ならではの濡れ場の描写も楽しめた。
今は同作者の『わたしの美しい庭』(ポプラ社 2020年)を読んでいる。私が思うに、BL小説という畑から出発したためか、作者は人物描写であったり、その背景を作るのがうまいと思う。好きになれる人物を描いてくれるし、萌える(もはや死語か)関係性を読ませてくれる。
『流浪の月』に関しても文と更紗の言葉にできない関係を尊び、二人の幸せを願いながら読んだ人が多いだろう。それはまた、『おやすみなさい、また明日』の朔太郎という登場人物がある小説を読んで、「どんなやつでもそこにいていい」と感じたように、孤独であっても生きていい、そこにいていいという力を、我々読者に与えてくれた作品であると思う。