共有できない世界をどう生きる

Yellow Magic Orchestra / Tong Poo (イエローマジックオーケストラ / 東風)を聞いている。

こんなにも時代を超えて現代を維持してる曲はそう多くないと思ってる。
たかだか5年しか活動してない音楽グループであり、たった5年で世界を魅了した音楽を生み出して、その後の音楽に影響を与え続けた音楽活動を行った。たぶん、共有の頂点ではなかったのかといまさらに振り返る。

いまでも音楽はたくさんの人々に聞き続けられていて、電車の中でもヘッドフォンをしている人はたくさんいる。

でも、その音楽のグルーブや感動は共有されているのだろうか。コピーされているという意味ではなく、同じ音楽のリズムやグルーブをどれだけの人に刻まれているのだろう。

共有する手段ははるかにずっと増えた。ツイートすれば、インスタグラムで、LINEで、ずっと簡単に共有できる。
それでも、ほんのちいさなグループや集団でそれが共有されているだけだ。

いま生み出されている音楽や映像、文章そういうものが一体どれだけ共有されて、また世代に刻まれて残されていくのだろう。
何十年と後に、グループや集団から離れまた別のグループや集団で生きるようになった世代が本当に共有しているものは何だろう。

いま、社会や世代に共有されているものは、漠然とした進化と不安だ。
音楽がマスとして共有されない世界で、共有され続けているのは、ニュースであり、ニュースが伝えるのはいつも恐ろしい現実と不安だ。

音楽は個人やグループの趣味となり、もちろん音楽ファンはたくさんいて、ライブにいけば共有を確かめることができるけれど、その場を離れれば、共有は再び個人とグループの中に押し込められる。

共有が表から消え去ろうとしているとき、その先にある世代に刻まれる共有は、不安以外にあるんだろうか。
何十年としてそのあとに、誰もが過ぎ去りし時代を共有する広大な音楽や映像、文章は何が残っていくのだろう。


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