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04 ぼくのアサヒカメラ アサカメは一番じゃなかった!

カメラ毎日 立木よしひろ1280

高校時代は全く写真とは関わっていなかった。
ブラスバンドでフルートをやっていた。
そのころのブラスバンドはコンクールと応援なので、基本、演奏する曲は行進曲が7割ぐらいだ。
金管楽器の音量がすごく、
行進曲の時は、僕はいつもピッコロに持ち替えた。フルートを吹きながら歩くのは格好悪い。
吹奏楽部はは運動部ではないけれどほとんど同じだった。
1年の時は、部が終わってから机の上によく正座させられた。
子供の時から完全椅子生活だったので、
正座などしたことがない。油汗がたらたらでた。
時代錯誤の軍隊調。
僕が2年生になってからはそういうことはやめた。
マーチばかりだとフルートはつまらない。
ので2年のときクラシックの個人レッスンを三鷹まで行って習った。
個人レッスンは前の人のレッスンを少し見ることになる。
しばらく通ったとき、小学校高学年の男の子が唖然とするぐらい上手だった。銀のフルートを吹いていた。クラシック音楽は、素養と環境がいるのだと気づいた。挫折した。
僕の時代なら、やはりロックやフォークだろう。

で大学受験の時に、写真をやることにした。
父親が新聞記者だったので、報道カメラマンになろうと思った。
知っている写真家は、土門拳とロバート・キャパだけ。
写真とは報道写真のことだと思っていた。

小学校4年の時、誕生日にスタートカメラを買ってもらった。
翌年フジペットに昇格した。
隣の隣が写真屋さんだったので、写真にはいつも触れていた。
暗室は入れなかったが、部屋中に乾燥したプリントが広げられていた。

そのころ僕が撮った写真はアルバムになっている。
残念ながらきちんと整理してあったネガは不明だ。
中学は市川から越境して御徒町にある、練成中学に行く。
それまでの田舎の小学校、考えてみれば子供の理想郷。
まったく勉強したこともない
一日外で遊びまわっていた僕にとって、
地獄の中学生活だった。少し性格がおとなしくなったし、
人間に陰影がついた。学校の図書館と、秋葉原の電気街をぐるぐる回った。

3年の修学旅行の前にオリンパスペンSを買ってもらった。
小さくかっこいいカメラだった。しかも72枚も撮れる。
高校ではブラスバンドだったので、
合宿の時そのカメラ持って撮りまくった。
そのその写真はどこかにある。写真はそれしか撮っていない。

3年生の夏、読書感想の課題に、サマーセットも―ムの「月と6ペンス」を読んだ。感想文で何を書いたか覚えていないが、
絶対芸術家になりたいと思った。
それが何なのかわからなかったが、
ただ大学は芸術系に行こうと思った。まじめな学問は無理だとわかっていた。
報道写真家になるならと父親は賛成してくれた。
それ以前に報道カメラマン以外を知らなった。
親父としては、知っている分野、出来の悪い息子
もサポートできると思ったのだろう。

カメラは、朝日新聞社を通して買ってもらった。
当然アサヒペンタックスSPだ。
旭光学で、朝日とは関係なかったが、僕にとっては一緒だった。
そのころ、NO.1カメラといえば、ペンタックスだったからだ。
テレビでも広告が打たれ、「ペンタックス、ペンタックス」と皆知っていた。だからNo.1カメラSPを手にした時は誇らしかった。
レンズはセットの標準55mmf1.8と105mmをそろえた。
実はワイドレンズがあることを知らなかった。
そのぐらい写真の知識0のド素人で日芸に行った。

大学に行って驚いたことは、アサヒペンタックスSPがNo.1カメラじゃなかったことだ。
一回り大きな、立派なカメラ、NikonFをクラスの半分以上が持っていた。
なんだこのカメラ!
ファインダーをのぞくと、肉眼より世界はキレに見えた。
ショックだった。知識もないとは困った問題だ。
フォトポエム研究会というクラブに入った。
いろんな学科が混在していて、女子も多かった。
写真ジャーナリストとしてすでに活躍している大石芳野さんが所属していたというクラブだ。
今みたいで、ネットで調べられないから、
どのくらい偉いのかその時にはわからなかった。
芸術祭で文芸学科と写真学科の有志のコラボから始まったクラブだったらしい。

写真ド素人の僕は、まず先生を探した。
一番最初は、同じクラスの後に博報堂HPCに行った柏木君だった。
彼の三軒茶屋の家でプリントを教えてもらった。
フォトポエムに入ると高木松寿がいた。
彼が本当の僕の写真の先生だ。
最初は彼のやることをすべての真似した。その彼は、僕のカメラよりも安いペンタックスSVを使っていた。高校の時から使っている。彼の写真は美しかった。プリントも美しく、当時必須だった、フェロタイプの処理は芸術だった。
僕は写真は報道写真しか知らなかったので、彼の写真にショックを感じた。こういう写真もあるんだ。
報道写真でも、商業写真でもない、日常だけれど、日本の土着的な要素のない知らない分野の写真だった。ハリーキャラハンみたいな写真もあった。
彼のプリント法は特別で、
最初のころは二段ベッドの上が暗室だった。
なにより驚いたのが、ピクナールという濃縮現像液を使っていることだった。そんなことはどこにも書いてない。
彼の美しいプリントは、管理をしやすさという合理的な精神から生まれていた。
カメラはSV、ごく普通のカメラだ。
この時僕は、かメラと腕は比例しないことが分かった。
それでも高木君がゼンザブロニカを買えば、僕も買い、
彼がニコンFにしたら、ぼくもニコンFを買った。
ワイドレンズがあることを教えてくれたのも彼だ。
さて本題だ。

大学に入って、いや、入る前の3月か4月ごろ、市川の大杉書店でカメラ雑誌を見た。アサヒカメラ、ニッポンカメラ、フォトアート、そしてカメラ毎日。
実はどれも退屈だった。
門外漢以外には解読不能の雑誌。
特にアサカメは開いてもみても、ちんぷんかんぷん、大御所の写真家たちの立派な作品。全然面白いと思えなかった。
あとはコンテスト。僕は一度もコンテストに応募したことがない。
あの頃は月例と言っていた。
50歳を過ぎてからカメラ雑誌の選者にもなったが、コンテストがどんなものか全く知識がなかったので選評の書き方も知らなかった。

かめ毎創刊、休刊

カメラ毎日創刊号と休刊号

大学入学したときのある日、
友達の家でカメラ毎日みていてぶったまげた。
篠山紀信(敬称略)の「ダンサー」と「熱い肉体」だった。スゲー。
一発でファンになった。ただそういう写真はその時の僕には、遠い世界のような気がした。
現実的に一番好きだったのは、高梨豊だ。彼の「東京人」を見たときはこれだと思った。
特別なものを撮っているいるわけじゃないのに
報道写真よりリアルに感じた。
その直後に、ロバート・フランク「アメリカ人」を知った。僕にとっての「神」は、フランクだった。
カメラ毎日のバックナンバーを見ると、
立木義浩「舌だし天使」があった。
伝説の新人、50ページぶち抜き。
これは因縁だけれど、僕がロバート・キャパの最期の日を書いているとき、キャパの通訳と編集者をしていたのが後に編集長になる金沢秀憲だ。
ひらの編集者、山岸章二が秘密裏に
「舌だし天使」を出版した、時のだまされた、編集長が彼だ。
間抜けな役回りだが、その後始末をしたのがすべてのその金澤だ。
彼は夕方になると銀座に行ってしまう。
ただ、詳細に調べてみると、山岸章二が暴れていたのは、
金沢編集長の時代だけだ。
僕がキャパの取材で直接話を聞いたら、山岸章二のことを非常に認めていた。彼は勉強家だと。
金沢さんが編集権を放棄していた理由には、
実はロバート・キャパが噛んでいる。その辺は別の機会に。

僕が学生時代のカメラ毎日の写真家たちは
皆20代から30歳前半、大御所はすくない。横須賀功光、大倉舜二、奈良原一一高、東松照明、有田泰司、深瀬昌久、沢渡朔、鋤田正義、森山大道、篠山紀信みな若かった。
カメラ毎日は、毎号買った。アサヒカメラは書店でチェックするだけだ。
表紙は立木義浩が印象的だった。
ルックスもモデルのようで、写真もおしゃれだった。
大学二年の時、学園紛争になり、
バリケード封鎖され、1年間休みになった。
最初はバリケードの中にいたけれど、
夏になり恒例の父親の夏休みに千葉に行き真っ黒になって戻ると、
空調のない炎天の教室はほとんど誰もいず、
いてもしょうがないと思い、外にでて写真を撮ることにした。
それから随分撮った。当然気になるカメラ雑誌は、
やはり「カメラ毎日」だった。
そのころから玄光社の「コマーシャルフォト」が気になりだした。
コマーシャルフォトがNO.1になったのは、1975年ぐらいからだ。
1970年になるとananが創刊された。ただのファッション雑誌ではなかった。皆あこがれた。
多くのカメラ毎日出身の写真家が活躍した。
大学の先輩である、報道写真家の一ノ瀬泰造もananで仕事がしたいと親友に言っている。
仲間内で話題だったのは、学園紛争後、
ペラペラだったけど流行通信というファッション誌で、
まだ学生だった細谷秀樹と達川清の名前を見つけ、嫉妬した。

1971年ぼくは日芸を卒業した。二か所、入社試験を受けたが当然落ちた。
僕の先生だった高木松寿は、面接のとき、風呂敷に20センチぐらいの厚さの作品を持ち込み当然のように日本デザインセンターに入社した。
そこには一つ上に田中長徳、青山達夫、遠藤知有、榎本敏夫がいた。
僕は、5月に2年間つきあっていたM子に、
茅ケ崎の海岸でこっぴどく振られ、
呆然としたなか、
デザインセンターのアルバイトをしようと高木に聞いた。
撮影のバイトはなかったが暗室のバイトに入りこめた。

実は、就職する気はなかったので、
誰かのアシスタントにつきたいと機会をうかがっていた。
朝日新聞写真部部長の百々さんにもあった。
写真家がいかにたいへんな職業なのか聞かされた。
僕は報道写真はやらないと言った。
何人かの写真家の面接を受けた。
どこもアシスタントはいっぱいだ。
そんなとき、ある強力なルートから篠山さんの面接を受けられることになった。まさか、と思った。
当時、若手というか、日本の写真家で断トツNO.1だったからだ。
世界的にも名を轟かせていた。だから篠山紀信のアシスタントになれるということは考えてもいなかった。
僕の写真を見た篠山さんは、「コンポラ写真だね」と言った。
コンポラとは、コンテンポラリー・フォトグラフィーの日本語的な表現だが
広告でも、報道でもない、純粋写真、というかテーマ性のないスナップ写真を撮る、若い写真家の一連の写真をそう呼んでいた。
たぶん田中長徳はその中の騎手だった。
牛腸茂雄もそうだ。あまり定義ははっきりしなが、
テーマ性の希薄な、スナップをする若い写真家は皆コンポラといえた。
面接であったころ、
篠山さんは、「オレレ、オララ」を撮り、転換点にいた。
アシスタントは2人。
その時はちょっと仕事を減らすと言っていた。
今、助手の募集はしていないけれど、
2年でも3年でも待つ覚悟があるのなら
入れてくれると言った。
正直僕は舞い上がった。
すでにたくさん写真を撮っている時期だった。
このまま写真を撮って、数年後アシスタントになれると。
人生がばら色に見えた。そこからアシスタントを2年しても、
24歳か25歳でフリーになるれると。
それが結局12月に突然連絡があり、1月からくるようにと言われた。
のちに開高健の「オーパ」で有名になる高橋昇が、
オフで自動車事故を起こし篠山さんのアシスタントは
宮城谷好是ひとりになってしまったからだ。行くと、仕事を減らすと言っていた篠山さんは、以前より大量の仕事を精力的に始めていた。
ほぼ一日24時間働いてる気分だった。

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