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CRP TOKYO 御徒町界隈 by 12PHOTOGRAPHERS 無料 キャンペーン中 ¥0 4月4日4時59分まで。

山手線周遊 10 御徒町駅界隈 2022年11月  
12 PHOTOGRAPHERS
ARI HATSUZAWA TERUYO FUKUMOTO AKIKO KURATA REIKO SHIOTA
SHIGEAKI AONO TATSUYA SATO TERUMASA ARIMA
YUICHI OIDE YUNA OGAWA YUTA HARAKUBO
YOSHINORI KAMEI ALAO YOKOGI

4月4日pm4時59分まで、無料キャンペン中です。
iphone ipadなどは、kindle無料アプリが必要ですが、パソコンは上記の
Kindle Cloud Readerから直接ご覧になれます。


御徒町界隈  横木安良夫

御徒町駅は、中学生の時、総武線の市川駅から越境通学で毎日利用した駅だった。越境は自分の意志で決めたわけではない。きっと新聞記者だった父親が、僕の将来のことを考えてのことだったのだろう。問題は、ほとんどの越境組は明確に、当時最強だった都立日比谷高校を目指していたいということだ。
そのなかで僕は唯一何も考えていなかった。
だいたい日比谷高校は日比谷公園のなかにあるのだと思っていたぐらいだ。
僕の通っていた国府台小学校は、戦後できたばかりの山の中の学校で実にのんびりとした学校だった。高学年になっても、天気がいいと授業をたたんで、皆で裏山の三角山にでかけた。
僕は6年生になるまで、ほとんど家で勉強をすることもなく野山を走り回っていた。
その田舎の小学校から東京へ、越境通学するのは僕が最初だった。
鉄道好きで、定期券で通学できることが嬉しかった。その千代田区区立練成中学に入学して愕然とする。全員が戦闘モード、とんでもないところに来てしまったと思った。
なにしろABC26文字を全部言えないなんて僕ぐらいだったからだ。
音楽は1年生の時だけ歌い、2年からは座学だけ。美術は美術史だけで、絵を描くことは一度もなかった。運動は得意だったのに、なぜか走るのも遅くなった。学年で2番だった長距離は、校庭はコンクリートで狭く走ることもなかった。それは地獄だった。小学校時代はやりたいほうだい。超プラス思考だった僕は、ある日突然内向的な人間になった。
朝は御徒町の駅から学校まで5分歩き、帰りはたまに松坂屋デパートをぐるぐる歩くぐらい。たいていは少し遠い秋葉原駅経由で帰った。秋葉原電気街が僕の遊び場だった。
ゲームもパソコンもメイド喫茶もない時代。秋葉原は電気の部品の街だった。それを眺めているだけで楽しかった。
中学の思い出はなにもない。クラブ活動もしなかった。そんな暗黒の中学時代の思い出はない。その中学校は随分前に廃校になり、今はアーツ千代田になっている。そのアーツ千代田もなくなるらしい。僕は記憶のなかから中学時代にふたをしていた。
それが、2003年、中学1年の時の担任だった小原先生から写真展会場に電話があった。「会いたい」という。
この続きはいつか今度。

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