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Pseudoarchaeology OF BLOCK FOTO 偽歴史  byAlao Yokogi 日本語版

english Edition➡https://note.com/alao_yokogi/n/n96993b56272d

BLOCK FOTO の偽歴史

写真の発明

カメラ・オブスキュラの原理(紀元前5世紀ごろ)
最初のカメラの原理は、暗い部屋の中の小さな穴、その穴の反対側の壁に外の景色が逆さに写るといった自然現象の発見だ。人類はかなり早くからそのことを知っていた。
なにを隠そう、私は教えてもらったわけでもなく、7歳ぐらいでその現象を知っていた。千葉県市川市国府台の県営住宅の薄暗い6畳間。台風一過の朝、ひとり目覚め、ほんのり明るい雨戸の方を見ると、木枠のガラス戸を覆う白いカーテンに、天戸の小さな節穴から光が漏れているのだろうか、カーテンがボヤっと発光している。這って近づきよく見ると、ぼやけた天然色のその像は、逆さになった我が家の庭だったのだ。私は、意味も分からずその美しさに感動した。今でも記憶に現れるほどキラキラとした経験だ。その現象が写真の原理だなんて知ったのは、ずっと後のことだ。
2.
16世紀ぐらいには、箱にレンズのついた、カメラオブスキュラ(写真鏡)が発明され画家は構図や遠近法に役立てた。カメラオブスキュラの描く画像を永遠に固定したいというのが、科学者(錬金術師)の夢だった。なぜなら人間の皮膚が紫外線に感光することを科学的に誰でも知っていた時代だ。
3.
ニセフォール・ニエプスの写真プロセス(1826年)
フランスのニエプスが、硝酸銀を用いることで写真像を固定するプロセスを開発した。撮影時間が長く画像も鮮明ではなかった。実用化もまだまだだったが、そのおぼろげな像は、絵画のようでもあり今や人気が高い。彼が写真の発明者であると信じている人が断然多い。
4.
ダゲレオタイプ(1837年):フランスのルイ・ダゲレールは、銀板にヨウ化銀を塗布し、露光後に水銀蒸気を用いて像を現像するダゲレオタイプというプロセスを開発した。これにより、長時間露光が必要ながらも初めて実用的な写真撮影が可能となった。またその像は鮮明で神々しいものだった。彼はその写真の特許を開放したことで、ダゲレオタイプは世界中に伝播した。だから公認された写真の発明者は、ダゲールということになっている。
5.
イギリスのヘンリー・フォックス・タルボットのカロタイプ(1841年):タルボットは、塩化銀の感光紙を用いてネガティブ像を得るカロタイプと呼ばれるプロセスを開発した。画像は鮮明ではなかったが、ネガティブから複数のプリントを作成する手法は、後の写真技術に影響を与えた。
6.
乾板プロセスの開発(1850年代):ネガティブの感光ガラス乾板が開発され、ダゲレオタイプよりも感度が向上し、露光時間が短縮されました。これにより、より便利な写真撮影が可能となった。
7.
ジョージ・イーストマンのコダックカメラ(1888年):彼はコダックカメラを発売し、「あなたはシャッターを切るだけ、あとは当社にお任せください」と宣伝でした。

写真の初期は、世界の記録、風景や人物、日常の記録として発展した。
ただカメラが生み出す精緻な機械的、光学的画像は、芸術とは違うただの科学的記録装置と考えられていた。
そんな時代、写真を芸術とするべく、絵画的な写真、ピクトリアリズムの作家が多く生まれ、芸術として認知された。

NEWYORKの写真家、アルフレッド・スティーグリッツは、初期にはピクトリアリズムの写真家だった。彼は、ギャラリーを持ち、アメリカに新しい芸術として印象派の絵を持ちこんだ。
彼の若い友人に、ピクトリアリズム写真の売れっ子エドワード・スタイケンがいた。
 スティーグリッツは常々考えていた、「写真は、絵画のように撮れば芸術作品になる」のではなく、「写真の機械的でリアルな描写そのものが芸術作品」だと。写真芸術は、ストリートフォトグラフィなのだろ。
その影響のもと、スタイケンはファッション誌VOGUEなどで、ファッションやポートレイトを、ピクトリアリズムを捨て、機械的でストレートな撮り方を持ちこみ膨大な写真を撮った。彼は他にも第1次世界大戦の戦場も撮っている。その後ニューヨーク近代美術館MOMA設立に尽力する。ディレクターになった彼は、ストレートフォトグラフィの写真展「ファミリーオブマン」をキューレーションして世界中を巡回した。
その時代、ストレートフォトグラフィやポートレイト、風景などのモノクロ写真こそが芸術作品であり、カラー写真の芸術的価値は低いとみなされていた。

カラー写真の発明と発展
1924年、音楽家であるマネスとゴドフスキーは、カラーフィルムの試作品を開発し、1935年にコダックに売却した。その技術を基に、ポジフィルムのコダクロームが開発され、1935年に16mm映画用フィルムとして発売された。翌年には35mmスチル写真用フィルムも発売され、コダクロームは外式現像のポジフィルムで、瞬く間に世界中で広まった。ポジフィルムはそのまま印刷原稿に使用した。基本複製はしないオリジナルを使用する。カラーのスライドをそのままプロジェクターを使用し家庭で鑑賞することもできた。
戦争写真家ロバート・キャパは1941年イタリア戦線にてすでにコダクロームを使用している。1954年彼が地雷を踏んで吹き飛ばされた時に、最後に撮った写真はKodachromeⅠだった。感度はiso10ぐらい。外式現像方式のそのフィルムの耐久性は抜群で現代でも鮮明な像を残している。
カラー写真の芸術的価値が低かったのは、撮影方法はモノクロと同じでも、その後の処理が、モノクロなら簡単な設備で、最後まで自分でコントロールし、プリント制作できる。一方、カラーの処理は精密な温度管理システムのもと、現像、そしてプリントをする必要があったからだ。そのためとても高価で、個人的なアート作品を作ることは難しかった。その代わり、商業的にブレイクした流行のグラフ雑誌や広告、ポスターや様々な分野でポジフィルムを使用したカラー写真が花開いた。

当時グラフ雑誌は最先端のメディアだ。今のようなレタッチや合成のような特殊なエフェクトも、専門のラボや職人によって制作され、また印刷技術も進化しており、現在のフォトショップでできることは、1960年代のアメリカのプロ写真の世界では何でもできるようになっていた。
日本では全く一般化しなかったが、アメリカではポジからプリントするには、ダイトランスファープリントが使用された。ポジフィルムを三色(シアン、マゼンタ、イエロー)に分解し、それぞれの色を染料で転写してカラープリントを制作するプロフェッショナルな技法、高価だったが階調表現、色彩、耐久性が豊だった。僕は80年代一度だけ、広告で使用したことがあるが通常のカラープリントとは全く違っていた。
もっともデジタル時代になってその匹敵するプリントを誰もが作れるようになりさすが現在で滅多に使用されていないだろう。

話が戻るが、コダクロームの発売以前から、映画用のカラーフィルムはネガカラーだった。各映画館に配るために大量の複製が必要だからだ。それらはポジフィルムとして焼きつけられ映写された。
また家庭用写真としてはカラープリントが1960年代になると人気だった。ただ当時のカラープリントは耐久性に問題があった。現像処理には温度管理など精巧なで高価な現像システムが必要なわりに変色も早かった。そのため芸術活動するには向いていなかった。もっぱらネガカラーは家族のアルバム用で、一方プロは印刷に適したポジフィルムを使用することになる。ポジフィルムの問題は、ラチチュードが狭く、一点ものということあり、仕事で使用するには訓練が必要だった。ポジフィルムがプロのフィルムという所以である。
1960年代後半になると、ネガカラーの耐久性や性能は劇的に進化し、しかもそれまでの高価な現像システムではなく、比較的安価な現像プリントシステムを、個人でも導入できるようになった。写真家が、ラボに頼らず、モノクロと同じように自己コントロールできるようになったことで「ニューカラー」が始まる。
 初めてカラー写真は芸術作品とみなされ1970年代、「ニューカラー」の運動は爆発した。そのためカラーの芸術作品は、ネガカラーフィルムが必然であり、結果としてCPプリントが主流となった。作者のコントールが可能な自家現像によって、芸術として認められた。若い世代の写真家たちはネガ―カラーとCBプリントの風合いに新しさを感じ、デジタル時代になってもネガカラーで撮影するカメラマンはたくさんいる。
かつてプロのフィルムだったポジフィルムからカラープリントするには、ひとつのやり方は、インターネガ(ネガフィルム)を作り、そこからCPプリントする。当然カラーネガフィルムからプリントするより明確に画質が落ちる。印刷用の原稿にはなっても、カラープリントのコーリティの差は明白だった。
 カラーポジフィルムのダイレクトプリント、有名なチバクロームは、発色やシャープネスについてはポジを再現できたものの、諧調表現はネガカラーにまったく及ばなかった。ポジは印刷したほうが綺麗だ。しかも印刷が80年90年代にはコンピューター化し、印刷ではかなり細かな調整が聞くようになった。
 2000年代になり、写真はデジタルがメインとなる。細かい画像処理は、かつて印刷でしかできないことがフォトショップでいとも簡単にできるようになる。

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