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【小説】カレイドスコープ 第1話 プロローグ

 四方の壁を無機質なグレーで塗られた室内で、岡野ツグミは日が差し込んでいる窓を少し眩しそうに顔をしかめてから視線だけ動かして見遣ると、その窓枠のサッシには数匹の蠅と思しき死骸が転がっているのが目に入ってきた。

 死骸がどれも白っぽくなっているのは、そこに放置されてしばらく経っているのかもしれないとおぼろげに思考を巡らせていた瞬間、鼓膜を震わせる音が突如耳に飛び込んできたのでハッとする。

 耳に絶え間なく飛び込んでくるその音の繋がりの音源の発信元は、ツグミの目の前にその存在感をぼんやりと現していて、徐々に心の焦点が合ってくると同時にその姿を人間の形へと変え、耳に入ってくる不協和音に聞こえていた音は、徐々に意味のある言語へと変化し始める。

 昨日退院した時は久しぶりに心が凪いでいたのだが、ここにいると意識した瞬間に急に動機が激しくなってくるのが分かる。

 それはまるで、幽体離脱をして空中を浮遊していた精神が、無理矢理肉体へと戻された感覚に似ている。

 すると呼吸をするのにも意識的になってしまい、ギュッと握ったこぶしの中には大量の汗が溜まり始めてきて、今にもその中から汗が外へと垂れてきそうな感覚に陥る。

 急に自分の首の状態が今はどのようになっているのかとても気になったが、まだ鏡を見る勇気は持てなかった。

 おそらくそこにはまだ凝視しなくとも分かるぐらいの痣が残っているだろうし、それによって恐怖感のぶり返しが襲ってきて、またツグミの心を閉ざしてしまう事も自分で本能的に分かっているからだ。

 「もう一回始めから聞いてみてもいいかな?」

 おそらく目前にいる粗雑そうな男から放たれた、最大限の気遣いの気持ちを込めた言葉は、柔らかいオブラードに包みこもうとしながらも、決して中身の苦さを隠す事が出来てはいない。

 その男の横に座っている眼鏡を掛けた神経質そうな女性は、男の発する言葉の抑揚や表現の仕方に細心の注意を払っているようで、ツグミの心を無駄に刺激しそうな言葉が出てくる度に会話を中断しながらも、あまり言葉使いに変化が見られない事に苛立ちを隠す事もなく、男の耳元でまるで脅迫しているような雰囲気で何かをヒソヒソと呟いている。

 ツグミは昨日まで点滴を刺されていた部分に貼ってあるテープを右手でさすりながら、目の前の二人のやり取りをじっと眺めており、それはまるでテレビの画面越しに見ているような極めて現実感が希薄な状態に思えていた。

 目の前にいる刑事としては、ツグミに対して色々聞きたいことが山ほどあるのは頭では分かっているようなのだが、ショック時に一度感情と理性が完全に分離してしまい、自分のコントロールを失った状態がしばらく続いた後では、頭の中で飛び散らかった記憶を拾い集めて系統的に繋ぐ作業は、ツグミにとって途轍もなく困難な作業のように感じられた。

 今のツグミにとっては、通常人の体が本能的に行っている目の瞬きや呼吸さえも、意識しないと出来ないのではないかという強迫観念に、時折心が支配されそうになるのだ。

 眼を少し瞑り呼吸を整え、自分の意識を自分の支配下におさめようと集中する。

 そしてやっと口から震えながら出てきた言葉は、ツグミが意図したものとは少し形が異なったものへと変容してしまい、それはツグミ自身をも驚かせるものであった。

「私…、助けられた時には動転していて、たぶん訳の分からない事を口走っていたかもしれませんが、今は幾分冷静に思い出すことが出来るので、改めてお話させて頂きます。」

 ツグミはこれから嘘を突くことに罪悪感が押し寄せてくるのを感じながらも、自分でも信じられない落ち着きを見せ、言葉を淡々と続けていった。

「現場付近で目撃されたという女性ですが、その特徴を聞く限りでは、私が知っている人物では無いと思います。」

 刑事から目をそらさないようにして言葉をつなげるが、黙ったまま話を聞いているその刑事の真意は、瞳を覗き込んでも答えは見当たらない。

 しばらくの沈黙の後、刑事は前のめりになっていた姿勢を崩し、椅子の背もたれに体重を預けながらその日の聞き取りを終了する旨ツグミに伝えた。

 部屋を出ると不安そうな表情を笑顔の下に無理矢理隠したツグミの母が座っていたソファから立ち上がり、ツグミに近付くとその肩を抱いてから、「大丈夫よ」と一言耳元で優しく囁いてくれた。

 母親の体温と匂いを身近に感じると急に、ツグミは先ほどまで頑なに自分の心の奥へと仕舞い込んだ秘密が溢れてしまいそうな不安に襲われたが、「彼女」を守らなければいけないという一心で踏み留めることが出来、母親同様不安な心を隠すように、笑顔を作ってその場をやり過ごす事にした。

 自分が人から殺されかけたという非現実的な事実は、日を追う毎に冷静に受け止める事が出来ていたが、ツグミにとってこの出来事はあまりにも不意に身に降りかかった災難であったので、ふとした瞬間にフラッシュバックが起きた際、呼吸が出来なくなり、全身に力が入らず、体の震えを止めるのも困難であった。

 しかもツグミを殺そうとした犯人は既にこの世におらず、その身元は未だに不明のままで捜査も行き詰っている様相を呈している。

 警察署から出ていきながら、ツグミは何度目かの記憶の模索の中で、犯人がツグミに向かって口ずさんでいた言葉の意味を考えた。

 そこには生前の兄の行いに対しての激しい憎悪が見え隠れし、その事がツグミを更に困惑させたのだ。

 何故なら兄の恭平は人格者とまでは言えないまでも、決して人の道を外れる行為をするような性格ではないと信じていたからだ。

 確かに恭平はあの事件の後に家族には多くを語らずに家を出ていき、音信不通のような状態がしばらく続き、何を考えているのかは計りかねていた。

 その後事故で死亡したとニュースで知った時には、あまりにも突然で呆気にとられたが、誰にも迷惑を掛けずに家族のために必死になって頑張っていたのを後で知った時、人生の不平等さに対して言いようのない理不尽を感じ、ぶつけようのない怒りを一人で溜め込んでいた。

 母と一緒に乗り込んだタクシーのシートに深く体重を預けると、取り止めの無く溢れる思考の流れが徐々に輪郭を作り出し、ツグミは自分がどうしてももう一度「彼女」に会って話をしたい事に気付かされ、それが自分の力強い意志へと変わっていくのを感じた。

 「彼女」が危険を冒してまでツグミを助けてくれた理由も知りたかったし、どうして犯人の素性を「彼女」が知っていたのかが明らかになれば、恭平の生前の様子を多面的に知ることが出来るような確信を感じた。

 なんの手掛かりも無く、どこから手を付けたらよいかさえ分からない状態ではあるが、それでも前進する事で、ツグミの中でわだかまっている心のさざ波を落ち着かせる事が出来そうな気がしてきた。

 タクシーの車窓から流れる風景を眺めながら、あの事件以降しばらくの間自分の体から乖離して散らばっていた集中力や感受性を一つ一つかき集め始め、ツグミは感情でまだ処理しきれていないこの出来事に本能的に震えながらも、その先にあるであろう恭平へ繋がりを探し出す事を心に決めた。


 次回


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