見出し画像

理想のおじいちゃん、おばあちゃん

自転車レースの医務室。目の前を老若男女がペダルを一心不乱に漕ぎながら通り過ぎていく。時々ブレーキの音や、隣の自転車と接触でもしたのか、鈍い音が聞こえたりもする。
その日私は医療班として参加していた。そこには看護士と女性の審判長がいた。引退後の人生の長さ、健康寿命とかそんな話をしていた。

快晴で、路面も乾いているから今日は事故は少ないと願いつつレースを眺めていた。

突然どんなおじいさんになりたいですか?と看護師に聞かれた。
「クリント・イーストウッド」
即答だった。
「どうして?」
「クリント・イーストウッドは愛想つかされて離婚したか、死別したおじいちゃんというイメージだけど、そのあとも逞しく一人で生きている感じだから」
「クリントは孤独なおじいさんのイメージ?」
「ジェームスボンド役の俳優たちもいいけどね、例えばショーン・コネリー。でもボンド役は隣に女性がいるイメージがあるじゃない?孤独であっても元気なイメージがいい」
「私はジュード・ロウが好き」
「無機的すぎるんじゃない。温かみがないイメージだよ」

こんな研究がある。女性は伴侶と死別した後、それ以前よりも逞しくなるらしい。一方男性は、伴侶と死別すると、転落するように要介護状態になったり、早く死んだりする。
男性は、仕事以外にコミュニティーが少なく、かつ自分でご飯を作るのが苦手で、一人になった時に自力で生きていく能力に欠けているから、と説明されている。

クリント・イーストウッドはそんなのを乗り越えて一人になっても強く生きる男の印象だ。そこに憧れる。

こんどはそこにいた審判長に聞いてみた。
「どんなおばあちゃんになりたい?」
「ほら、あのプラダを着た悪魔に出ていた……」
「アン・ハサウェイ?」
「違うわよ、そっちじゃない。メリル・ストリープ」
「どうして?」
「正義感が強いおばあちゃんというイメージだから」

なるほど、正義感か。「だから審判長やってるんだ?」
「間違ったこと嫌いなの」
なるほどね。
「間違ったことがきらい」というキーワードはクリント・イーストウッドにも当てはまりそうだ。

その日の会話はそれまでだった。

一晩寝た今朝まだ暗い中、ベッドの中で、クリント・イーストウッドとメリル・ストリープの名前を反芻していたら、思い出した。
「マディソン群の橋」
二人が主演をしていた映画だ。

マディソン郡に住んでいる女性フランチェスカが、家族の留守中に屋根付きの橋の撮影にやってきた写真家ロバートと出会い、恋に落ちる話。うろ覚えだったのでウイキペディアで調べてみたら、屋根付きの橋の上で短い逢瀬と別離。ずっと後のロバートの死後にフランチェスカはロバートの遺品を受け取る。そこでロバートは死後、遺骨を二人が出会った屋根付橋に散骨されていたことを知る。年を取ったフランチェスカは死ぬとき、火葬にして灰をおなじ屋根付き橋に撒いてほしいという遺言を残し、子供たちは理解してそれを実行するという話だった。

周りからは、そんな事やりそうにないおじいちゃん、おばあちゃん、私もこの映画の事を思い出す前は、さらっとその名前を口にした。おそらく審判長も同じだったろう。
映画の主人公の話ではあるが、おそらくこのキャスティングを決めた映画監督(クリント・イーストウッドその人)も、クリント・イーストウッドとメリル・ストリープのクリーン、かつ良い人のイメージからこの配役を決めたのだろう。

原作は1992年だから私が27歳の時、映画は1995年だから30歳の時だ。その時にはおセンチな本に映画だったと思い、あまり良い印象があったわけではなかった。
その理由には、メリル・ストリープが野暮ったく思えたから。おそらくそう狙って撮影されたんだろう。

そして正義感が強いイメージの二人のおじいちゃんとおばあちゃんを並べてみて、その二人が実は昔不倫をしていた、ならどう感じるだろう。実はこの文章を書き始めたときは、本当に理想のおじいちゃんやおばあちゃんのイメージを書くつもりだったのだ。それがトンだ脱線をしてしまった。

どうも脱線した方が真実味がある。正義やクールなカッコよさよりも、もっと泥臭いカッコよさというのがあるんだなあ。今ならメリルストリープの野暮ったさも許せるような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?