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『サマーフィルムにのって』 いつか未来に挑戦するために。

好きで好きでたまらないものから遠ざかった心が鈍感になっていくばかり、2021夏。
去年と今年の夏を取り戻すことはできないし、学生時代をやり直すことだってできない。
だけど「好き」という気持ちが体を駆動する可能性はいつだってここにあるし「好き」と叫ぶことに周りの目を気にする必要はない。『サマーフィルムにのって』をスカッと見終わった日の夜、後から胸にジワジワやってきたのは、過去を思い出す興奮と、未来を思い直す勇気だった。

※以下ネタバレ

「この夏の間だけ、みんなの青春、私にちょうだい」

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10代の時代劇をつくりたかった時代劇マニアの高校生ハダシ。
映画部のコンペで落選した『武士の青春』の脚本を持て余したまま、親友のビート板、ブルーハワイとともに放課後は秘密基地に集まって映画鑑賞する日々。文化祭で上映予定の映画部代表作品は、カップルが「好き」を連呼するリア充全開モノで萎える。
自分が「好き」な時代劇を作品化する環境に恵まれず、居心地の悪い思いを抱えるハダシだったが、『武士の青春』の主人公にぴったりな青年、凛太朗と出会ったことから、彼女の「好き」は沸騰を始める。

映画制作に賭ける高校生チームを描いた、昨今では珍しい王道青春映画と呼べる『サマーフィルムにのって』。
こういった作品には不可欠な要素である、ハダシチームそれぞれのキャラクターが愛しいことははもちろん、誰のどの「好き」も腐ささない脚本はわかり易い対立構造や序列を描かない。むしろ共鳴しあう可能性を秘めている希望の描き方には、この作品自体を未来へつなげようとする意思が見えて感動した。
そして何より、作品冒頭からハダシが模索する『武士の青春』のラストシーンが、作品自体の絶対的なクライマックスにリンクする結末には目を見張る。個人的に大きな信頼を寄せる松本壮史×三浦直之タッグの最新傑作だった。

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「他人の物語に使う時間なんてない」

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この映画の転換点は言わずもがな、自分が未来からやって来たハダシの大ファンだと凛太朗が明かすところだ。
だけど、いわゆる時間旅行モノとは不可欠な、タイムパラドックスなどのSF展開に脚本のページ数は割かれず、ラストシーンまでの加速を邪魔しない。(ドクの「来ちゃった」が象徴するように、未来世界の存在はサラリとしたものだ)
むしろ、未来からの使者として凛太朗に与えられた最大の役割は、未来には映画がないとハダシに伝えることだった。

我々の現実でも、「ファスト映画」の投稿者から逮捕者が出たり、動画SNSが再生数より再生時間の指標に重きを置くようになったことは記憶に新しい。凛太朗が伝えた未来「他人の物語に使う時間なんてない」という理由で映画が無くなった世界は、リアリティをもって受け止められる。

ショックを受けたハダシはここから脚本を書き換えていく。

だけど、僕が心を揺さぶられたのは、ハダシが自分の物語にすら無関心でいる姿だ。
未来では巨匠になっている自分を想像したり、情報を聞く素振りも見せず、ただただ映画がない世界と対峙して精神をすり減らす姿こそ、「自分の物語に精一杯」であろう未来に挑戦しうる精神を持った制作者に思えて、何度も震えた。

そして、その根本にある気持ちこそ「好き」なのだと作中では描かれるし、それはハダシのようにきっかけを与えられた存在だけが持ちうるものではない。リア充キラキラ映画を本気で制作する映画部の花梨もまた、ハダシ同様の「好き」を持っているのだ。 

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(普遍的な学生生活を映しつつ、二人が交流するまでの時間を描いた部室シーンは最高だった。テンプレートな対立軸を真のライバルに昇華させる瞬間であり、背中合わせで編集作業に徹する2チームが共存する時間、存在する学生のわちゃわちゃした甘酸っぱさは素晴らしい)

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未来から現在、現在から過去、それぞれの「好き」に対する眼差しは、凛太朗とハダシが互いを追いかける二つのシーンにもあらわれている、最終的に二人が交差するラストシーンへ続くのだ。(最高の壁ドンを挟みつつ)
「まなざし」今作の脚本に参加している三浦さんが、劇団ロロでは特に『いつ高』シリーズで費やしてきたことではないか。

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「未来はたった一歩先」

主演、伊藤万理華の表現力は言わずもがな。
冒頭、部室から出たハダシが、ビート板の「部活終わった?」に対して「終わったー」と答えるセリフだけで、ハダシのキャラクターが一瞬で立ち上がる。(このセリフと、吹奏楽部の演奏する曲に気づいたときには、心をつかまれていたと思う)
秘密基地で凛太郎に脚本のアイデアを提案されたときの「ああ」もそうだ。
世界に拗ねていて、他者との距離感や対話が苦手だけど創作意欲だけはすごい。そんなわかり易いキャラではなく、どれも「好き」を持て余していた人間からあふれる新鮮な反応なのだ。

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それは、ハダシとビート板、ブルーハワイの関係性にも表れる。
なんとなく似ていて、だけど「好き」の方向性はそれぞれにある。そんな当たり前のことが、当たり前のように存在しているだけで、本作が可愛いをスクリーンに並べるアイドル映画と一線を画している説得力になっている。
(三浦脚本らしいヘンテコなあだ名も、仲間からつけられたあだ名であると想像できる。荷物を持ち上げる体力もなく、チャンバラにも参加しない彼女がプールの時間に手放せなかったであろう「ビート板」。ベタな少女漫画が好きで、シンプルな愛情表現にキュンキュンする、おそらくメロンソーダのようなフォトジェニックも好きであろう彼女が「ブルーハワイ」(ロロといえば、駐輪場のポールに腰掛けた3人が、校舎の窓から外を眺めるダディボーイを見上げるシーンは、『いつ高』の苺ミルク女子と群青じゃないか、、))

伊藤万理華といえば、乃木坂の個人PVを思い出してしまうのだけど、このラストシーンは彼女の一歩先の未来にあった白眉です。是非。



(オケタニ)

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