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全部の物語の続編【#51 つづく】

この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ。ノワールでもいい、家族小説でもいい。ただただ疾走しているロード・ノベルでも。いいか。もしも物語がこの現実ってやつを映し出すとしたら。かりにそうだとしたら。そこには種別(ジャンル)なんてないんだよ。
暴力はそこにある。
家族はそこにある。
きみは永遠にそこには停まれない。

きっと。何枚もの紙面に書き写され、何本ものマイクの前で発せられたこの口上は、古川日出男『ハル、ハル、ハル』の冒頭だ。
この短編に登場した三人のハルは、東京都内から犬吠埼へ脱出する。貧困があり、親からの愛があり、拳銃があり、ハイジャックがある。でも、それは僕が読んできたすべての物語の続編だから、特に意味はない。その事実と、東京から駆け抜ける三人の様子だけがある。
この物語がすべての続編であると明言されたことで、本を開いた瞬間から、彼らの旅は、僕らが想像する小説というエンタメから逸脱している。

古川日出男を意識して読み始めてまだ数ヶ月しか経っていない。
でも、彼が書き残した作品は、どこか似たような構造で、語り口で、まるで神話のように、熱く淡々と、凄まじい速度だ。

『LOVE』の中で古川日出男が書いたように、古川日出男には圧倒的な技術がある。形に固執せず、物語ることを止めないように、淡々と言葉を放った瞬間がページに納められている。リズムとビートが聴こえてくるほどに。

全てを通過していく。
言葉を放っている。
こんな人がいるのかとビリビリした。

彼の作品に出てくる人は度々欠落を抱える。人の顔が覚えられなかったり、会話を止められなかったり。
でも、純粋だ。

(狂気的という言葉はもう自分の身に合わない言葉だから使えない)圧倒的に純粋で、ウジウジせず、世界と対峙する。
それは、歩きつづけ、食べつづけ、言葉を止めないことだ。
それらの回転と、作者による描写が奇跡的にリンクするのは、著者のスピードがあるからだ。第四の壁すら行き来しながら物語りを止めないで描き続けること事態が著者の技量か。

「物語る」を朗読という手法でも現している。過去に向井秀徳とのギグも行っている。向井は対談で、こう語る。

向井秀徳「言葉にならない感情だったり、考えだったり、映像だったり、言葉で説明できないものを言葉で表現したい。しかし説明はしたくない。漠然と「赤い」とか抽象的な言葉でも終わらせたくない。その狭間でもがきながら、でも何か放ちたい。(中略)言葉を放つエネルギーの強さの度合いが大事で、それはやっぱり古川さんもすごく強い。その強さに共感もするし、私もそうありたいと思う」

生でその朗読を聴いたことがないが、自分の持つサブスクで唯一彼の肉声を聴ける曲があった。


常に数作を並行して書き進め、それがもたらす肉体への強烈なダメージと、それでも止まらない思考回路とアイデアの源を描いた『ボディ・アンド・ソウル』でもわかるように、古川日出男は速度をもって死線をくぐり抜ける。

僕は読書家でもないし、文学というものを意識したこともないけど、古川作品からビシビシ感じるものは圧倒的だった。「鉄風 鋭くなって」を聴いたときの感じだ。

古川日出男「こっちが本でやりたいことっていうのは、本を開いたら今までになかったスリルを味わわせることなんです。でも、普段本を読まない人っていうのは、本ってものは自分を脅かさないものであるという前提で読もうとする」

速さが辿り着くのは、明らかな終着点ではない。水源ではなく、海。佐々木敦が彼を「アンチ遡行的な小説家」と評しているように、何かを解消する物語ではなく、起点も終点もない、オープンワールドな世界。

テレビやスマホで考察ブームが起こる最中、僕はその真逆の物語に挑んだ。そちらの方が何倍も、熱い風が吹き抜ける爽快感があった。

今泉力哉がおそらくTwitterで、登場人物の心情表現のために、天気やセットの色や光源を左右する作り方はしない、現実ではそんなことはない。というようなことを書いていたがその通りだ。

理由や伏線が行き着く"完結"自体が、物語を読むこちらの予想を裏切らない。
だから、本に脅かされるなんて思ってもない。

そして物語に終わりはない、全部の物語の続編にだって。(『ハル、ハル、ハル』)

ページをめくれば始まり、最後の1ページを読み切れば終わることを当たり前だと勘違いしていた。
この続編を読んで、ヒリヒリしながら読んで、それぞれがさらにその先の続編を生きることが、言葉が放たれた世界線に置いてかれた野望ではないか。

【第51週のテーマは「つづく」】

(オケタニ)

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