見出し画像

ずっと真夜中でいいのに。『ぐされ』の願望と命令


昨年末、紅白歌合戦を観たときのこと。
YOASOBIのステージ演出に強烈な違和感を覚えた。

最初は「番組の後半にNHKホール以外の場所から中継」という手法が、2018年に米津玄師が出演時とまったく同じだったことに白けていたのかもしれない。しかし、カドカワの図書館から演奏を届けたikuraとAyaseが大量の本に囲まれながら、アニメーションMVを背景に歌う姿を観てそれは確信に変わった。

あまりにも「わかりやすすぎる」のである。

カドカワの施設で歌うのはニコニコ動画のボカロ、歌い手文化から出てきたアーティストだから、本に囲まれているのは短編小説からリリックを生み出しているから、アニメーションはいわずもがな。おまけにラストサビではレトロな電光細工で、YOASOBIという文字が浮かび上がる。
アーティストとしての出自や意図、その背景にあるコンテクスト、そして楽曲によって喚起される感情までもが、わかりやすく演出のなかに収まってしまっている。

「わかりやすさ」はリスナーを引きつけるために必要なことだ。
ただ、様々な文脈をきれいにパッケージングしてしまうことには、グロテスクさと危うさを感じずにはいられない。

さて、前述のYOASOBIはヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。とともに「夜好性」と呼ばれ人気を博している。

「夜」を想起させる名前が入ったアーティスト名、基本的に顔は明かさずアニメーションを用いたMVを公開、ボーカロイド出身のクリエイターが楽曲制作にかかわっている、楽曲で用いられるアップライトピアノの音色が似ている……などの共通点から、昨年(2020年)からそのように呼ばれるようになった。


ただ、そのなかでも異質なのが、ずっと真夜中でいいのに。(ずとまよ)である。
YOASOBI、ヨルシカがボカロPを経験したソングライターとボーカルのユニットであるのに対し、ずとまよはただ一人のメンバーであるACAねがボーカルとソングライティングの両方を担当する。さらには、2組には楽曲に付随した物語があるのに対して、ずとまよの音楽には明確な物語はない。彼女の作品のCDのブックレットには、物語でなく楽曲やMV制作のメモが収録されているだけだ。楽曲と物語のヒントだけを出して「あとは勝手に解釈してください」というのはある意味、不親切かもしれない。


そんな不親切なずとまよだが、2月の上旬にリリースしたアルバム『ぐされ』は、いまだにSpotifyのトップアルバムチャートの上位に位置し、シングル「正しくなれない」はスマッシュヒットを記録している。


このアルバムタイトルを目にしたときから、気になっていたことがひとつある。それは「ぐされ」が命令なのか、願望なのかということだ。

ポップミュージックとして耳に残るフックやサウンドに施された絶妙な仕掛けからは「ぐされよ(刺されよ)」と言わんばかりのサービス精神を感じるし、独特の言語センスが散りばめられた歌詞やメロディやサウンドが目まぐるしく変わる構成からは、「これがぐさって(刺さって)欲しい」という意図も感じる。
結論から言うと、この作品は命令と願望を両方含んだものだ。

例えば、昨年5月にリリースされ翌月リリースのEPと、本作の3曲目に収録された「お勉強しといてよ」がそうだ。


ずとまよはデビュー以来、2010年代の国内ロックとボーカロイドを折衷した疾走感のあるメロディと演奏に、新たな言語感覚とフロウを取り入れたアーティストとして人気を博していた。しかし、この楽曲以降、現代的なファンクミュージックのアレンジメントを全面的に取り入れるようになる。

「お勉強しといてよ」のBメロで、フロントマンのACAねは、グルーヴィなベースラインと歌謡曲的なストリングスのうえで、アンニュイに「勿体ぶっていいから孤のままヤンキーヤンキーだ」と歌う。

このラインに象徴されるように、彼女のソングライティングの特異さと言語感覚が、清廉なアレンジのなかで、より際立ったものとして表現される。つまり「ポップだけど意味が読み取りにくい」ものが出来上がってしまった。ここで歌われるのは、わかってほしいけど、わかってほしくない、という矛盾した感情だ。

そうした相反した感情を抱えたまま、彼女は高らかに歌い上げる。「お勉強しといてよ」と。なんて投げやりなのだろう。


この曲と同時期に発表された「MIRABO」もそうだ。ディスコファンク調の演奏で、「ミラーボール怖がって」と歌ってしまうのだから。


これらの楽曲の以降に大型タイアップソングとして発表され、アルバムの中核を担う2曲目「正しくなれない」と7曲目「暗く黒く」も、同様にポップさのなかに「わからなさ」を潜ませている。ダイナミックなストリングスとアコースティックギターのループが同居するなかで煩悶を歌う前者と、パートごとにアレンジのテイストやリズムが変わり、全編に渡って曖昧な言葉が並ぶ後者。どちらもJ-POPソングとして洗練されていながらも、リリックやメロディライン、サウンドからはほのかに不気味さと読み溶けない何かが漂う。


アルバムが初出の楽曲たちにおいても、あらゆる形で「ポップな不気味さ」は強調される。センチメンタルなピアノと流麗なストリングスのなかに、機械的なノイズがが潜む「胸の煙」や、アンビエントR&B以降の隙間の多いトラックとささやくような歌唱で、歌謡曲的なメロディがなぞられる「過眠」。そして、フォーキーな演奏にオルタナティヴロック的なギターが絡み合う「奥底に眠るルーツ」。

彼女の表現は、リスナーに歩み寄り、同時に突き放す。

その矛盾した感覚は、ACAねが名だたるアレンジャーやミュージシャンをコントロールし一人でソングライティングを行いながらも、メディア出演時は徹底して顔を見せないことからも読み取れる。

そして、冒頭に記した「明確な物語が読み取ることができない」ことと「CD盤のブックレットには設定資料や制作メモを封入する」ということともつながっている。

ただわかりやすくするのではなく、わかりにくくするだけでもない。ずとまよはその「両方」を含んだ作品を作っている。

「わかりやすく」共感を呼びシェアされるものか、やたらとハイコンテクストで「わかりにくい」ものが称賛される現在のシーンにおいてこのような作品をつくったこと。

そのことに、大きな意味があるように思える。

(吉田ボブ)

サポートは執筆の勉強用の資料や、編集会議時のコーヒー代に充てさせていただきます