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過去を思い出すことの意味

映画『14歳の栞』を見た。

これは、とある中学校の「2年6組」の3学期に密着したドキュメンタリー映画だ。特定の主人公などは存在せず、ただただ35人の「14歳」の、生々しい学校生活の一部がそこにはある。

ツイートにも書いたけれど、自分自身の14歳について、つい思いを馳せずにはいられなくなるような、そんな120分だった。

この映画を見たあと、私は自分の14歳の記憶について、実際に思い出してみた。「思い出してみた」というよりも、ふとした瞬間に、いやが応でも浮かび上がってくるようになったのだ。

2年C組。その教室は、たしか古い校舎の2階、階段の上にある踊り場を曲がってすぐ左の場所にあった。

男女ともに、明るくてうるさいクラスメイト。担任は「なべやん」というあだ名がついた、背が高く山登りが趣味だという、40代くらいの自由な男の人。

学園祭でみんなで作り上げたピーターパンの演劇(私はたしか動物役で着ぐるみを着た)、何よりも熱中していたバドミントン部での部活動。厳しくも優しかった顧問のA先生、お姉ちゃんのようにいろんな話を聞いてくれた、副顧問のJ先生。

女子のあいだで流行っていた手紙交換。好きな人とのメールにたくさん連なる「Re:」の嬉しさ。ホワイトデー、放課後に教室で友達とたむろしていたら、ドアが勢いよく開いて「俺は◎◎のことを一生愛してる!」と半ば叫ぶように言い残し、プレゼントを渡して去っていった友達の彼氏。その彼が作った、中学校専用のインターネット掲示板(まだ公にされていないカップル情報などがリークされたりしていた)。デコログやモバゲー、前略プロフィールで繰り広げられる、気になるあの子のプライベートな情報たち。

毎日の通学電車で見る他校生。制服がなかった私たちは、毎週水曜日は「なんちゃって制服デー」と勝手に設定し、「EASTBOY」で揃えた制服のような格好で登校した。

昼休み、中庭でバスケをする人気の先輩を2階の窓からいつも眺めた。ある日突然、同級生の男子から、aikoの全アルバムがコピーされた大量のCDをもらった。生徒会活動があるため、学校の規則で全部活が一斉に休みになる毎週水曜日は、忙しい部活に所属している学生たちのデートの一番のチャンスだった。

はじめての彼氏。はじめてのデート。はじめてのキス。

学校に来れなくなってしまったクラスメイトの女の子。部活動で起きたボイコット。家庭で頻繁に起きていた喧嘩や仲違い──。

記憶は連続的ではなく断続的だ。一連のストーリーとしてではなく、頭の中でパッパッパッと、細切れにシーンが入れ替わっていく。

──こんなことを書いておきながら、実を言うところ私は自分の14歳に、いい思い出があまりない。

もちろん上記に挙げたもののように、ひとつひとつに対して「あれは楽しかったなあ」と言えるような「いい思い出」は存在するが、全体的に見ると、思い出すだけで口の中が少し苦くなり顔が引きつってしまうような、そんな生き方をしている時期だった(だから映画の中で、一見楽しそうな学校生活を送っている女の子が「全然楽しくない」「素を出せていない」というようなことを言ったシーンに、ものすごく共感できた)。

14歳の私は、いつも怯え、恐れていた。

傷ついた過去に怯え、傷つくかもしれない未来を恐れ、「今」は、過去と未来から自分を守るために存在した。自分を守るために「自分」を手放し、残ったのは、ただ相手に合わせるだけの、空っぽの自分だったのだ。

人気者のあの子に嫌われないように。とにかく空気を壊さないように。その結果、「ゆかちゃんは誰にでもいい顔をする」と言われることも多かったし、そんな自分を疎む人も少なくなかったように思う。

私はたぶん14歳の頃、全然「今」を、「自分」を生きていなかった。

自分にとっての正解が、コロコロと変わる時期だった。
誰かに嫌われることが、とにかく怖い時期だった。
誰かに必要とされないことを、とにかく恐れていた時期だった。
自分のふとした行動が誰かを傷つけているかもしれないことを、想像しきれていない時期だった。

だからそんな14歳の頃の記憶を、私は今までできるだけ見ないよう、無意識のうちに、必死に「蓋」をしていたのだ。

けれど、実際にこうやって14歳の記憶を思い返してみて生まれた感情は、不思議と、自分自身に対する「愛しさと感謝が含まれた反省」だった。

あれほど嫌いだったはずの、あれほど思い出したくなかったはずの自分自身が、なぜか愛しく思えたのだ。

そしてそれはなぜかを考えた時、「過去」「現在」「未来」の捉え方が、変わったからなのだろうなあ、とふと思う。

14歳の私は、前述したように、傷ついた過去を繰り返さないよう、未来の自分が傷つかないよう、まるで電極のあいだをすり抜けるゲームみたいに「今」を生きていた。過去は、自分にとって決して繰り返してはならぬトラウマであり、未来は、そのトラウマを避けなければいけないものだった。

けれど、28歳の私は、その捉え方がまったく違う。

今の私は、「今を大切に生きる」ことが、未来も過去も変えていく行為だと知っている。過去にも未来にも、ちょっとやそっとじゃ怯えなくなったのだ。

私の好きな言葉に、平野啓一郎さんのこんな言葉がある。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?(『マチネの終わりに』)

この言葉に出会った瞬間、私はかなり救われた。過去は、未来によって変えられる──つまり、「今」を生きて「未来」を作っていくことが、過去をも救いうることを教えてもらった。

愛しあっていた恋人同士が、「最悪な別れ方」という「未来」を作ることで、その愛しあっていた時間さえも嫌な「過去」になってしまうように。逆を言えば、どんなに嫌いあっていた関係でも、「最高の再会」をすることで、その嫌いあっていた関係が笑い話になってしまうように。

実際に私は今までの28年間、ひどく傷ついた経験がある。そんな時、過去を憎んでしまったこともあるけれど、その度にこの言葉を思い出し、過去を変えられるような「今」を生きて「未来」を作るよう、次第と努力するようになった。

そうやって「今」の自分自身を大切にできるようになった私自身を、今、私はとても好きだ。だからこそ、14歳の頃の自分のことも、愛しく思えるようになったのだと思う。

「過去を思い出す」ということ。それは、その過去をどういうものにこれからしていきたいのかという、「今」と「未来」への対峙でもあるのだと思う。

過去という名の、未来の対峙。それがきっと、今の自分を作っていく。

すべてが不確かでほろ苦かった14歳の頃の記憶を、私はこれから、何度でも思い出したいと思う。そしてその記憶が、どんどん自分にとって「いいもの」になるように、そんな未来を作るために、今を生きていきたい。

過去を思い出すことは、今を生きる意志へとつながる──。そのようなことをあらためて思い出させてくれたこの映画に、感謝の気持ちを送りたい。

このnoteは映画『14歳の栞』の公開を記念してご依頼いただき、執筆したものです。#私が14歳だった頃 で、エピソードを募集しております。ぜひご参加ください。





ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。