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「自由」が生み出すもの

「悠々自適に、のびのびと自由に生きてほしい。」

私の「悠佳」という名前は、そんな思いが込められてつけられた名前らしい。自分で言うのもなんだけど、すごく気に入っていて、いい名前をつけてもらったなあと、親には感謝している。

そして最近、私は名前の通りに生きているな、ということに、ふと気付いた瞬間があった。

私が中高大の10年間の学生生活を過ごした同志社という学校は、「自由」「自主」「自立」という3つの精神をものすごく大事にする学校で、中学校の時から特に校則はなかった。服装も自由、化粧するも髪を染めるのも自由、部活動も勉強も「自分のやりたいように」できる場所だった。

同志社では一方的に指導するというスタンスではなく、生徒の可能性を信じて、個性を大切にし、一人ひとりが自発的に行動して自分の力を発揮できるよう努めてきました。(同志社大学 公式ホームページ)

本当に、書いてある通りの学校だった。それぞれの多様性を自然に受け入れながら、いろんな進路に進む人がいた。真面目な人も、不真面目な人も、恋愛至上主義な人も、勉強至上主義な人もいた。

そして新卒で入ったサイボウズという会社も、偶然か必然か分からないけど「自由」「自主」「自立」という考えをものすごく大事にしている会社だ。育ってきた同志社という環境にものすごく似ている。基本的に、働き方も、進むキャリアも、仕事への姿勢も、何もかも「自由」だ。

なんというか、約12年間ありえないほど自由な環境でのびのび生きてきたというのは、すごく珍しいことなのかもしれない。

そういう環境で生きてきて思うことは、自由って、偉大で怖い環境だ、ということだ。「何をしてもいいよ」と言われると、自然と自分で「何をすべきか」「私は何をしたいのか」を考えざるを得なくなる。逆を言うと、何をしても「すべて自分で決めたことでしょ?」と言われるのだ。人のせいに、環境のせいにできない。

結局、すべてを生み出すのは「自由」な環境なんだ、と思う。「自主」「自立」の精神というのは、「自由」からしか生まれない。人をルールで束縛すると、何かあったとき、人は必ずルールのせいにする。他責の念が生まれる。だって、そこに自分の意思はなく、自分が決めたことではないから。

私が生きてきた環境を話すと、「いつも自由で、ユルくていいねー」と言ってくる人がいる。たしかに、受験も小学生以来経験せず、エスカレーターで進学して、奨学金を借りているとはいえお金にもそんなに困ったことのない人生を思うと、人に言わせれば「甘い」のかもしれない。

けれど、自由って結構スリリングだ。私はこれからも、自由な環境で生きていたいなーと思う。なんか、そういう環境にいるのが、自分らしくいられるということな気がする。ルールに縛られることなく、自由に、名前通りに生きていきたい。そして、必死に私たちの学費のために働いてくれた親に、いつか恩返しをしたいな。そんなことを思う日曜の夜でした。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。