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ひかり

「おまえは本当に綺麗事しか言わないね」と言われたことがある。もう5年も前の話。

そんなに前の話なのに、今でも一瞬であの場所に引き返される。冬の手前みたいな冷たい匂いも、秋の終わりの中途半端な温度も、日が暮れて暗くなりかけた色も、全て簡単に蘇ってしまう。

と同時に、それを生徒昇降口にあった自販機の前でひとに話したときのことも思い出す。

当時の私には「あいつに『綺麗事しか言わない』って言われたんだけど! 」と、大声で怒りを露わにしたり、愚痴を言ったりするような元気はなかった。

私が話したそのひとはあたたかい匂いのするひとで、私はそのひとのまとう空気が大好きだった。やさしいひとだった。

どんな文脈で打ち明けたのかは思い出せないけれど、気づいたら「人に『おまえは本当に綺麗事しか言わないね』と言われたことがあって、その棘がずっと抜けないんです。呪われ続けているんです」と溢していた。今も思い出して泣いてしまうくらいだから、その日もきっと泣いていたと思う。

やさしいひとだった。

丁寧にうなずきながら「君がどんなことを言ったのかは分からないけれど」「自分はその『綺麗事』と呼ばれるような夢や理想論すら語れない人生こそつまらないと思う」「それを言葉にできるって素敵なんじゃない? 」と言ってくれた。

…気がする。私が自分の記憶を捏造しているだけだったらとんでもないけれど、そのひとは確かにそう伝えてくれた。
(さすがに一言一句の隅々までは覚えていられなかったので、あくまでもニュアンスの話ではあるが)

あの日の棘が抜けることはないし、きっとこれからも囚われ呪われ続けてしまうのだろうけれど、あのやさしい声のあたたかい言葉を一緒に思い出すことができるというだけで、今の私は、棘しか持っていなかった私よりも強いと思う。

棘の刺し傷が癒えることはなかったけれど、やさしいあの人がくれた言葉は今もこうしてやさしい光を放ち続けている。

もしかしたらふたりとも、もう当時のことなんて覚えていないのかもしれない。けれど、だからこそ、私は記憶から取りだして残しておく。

大好きだったやさしいあの人が、今日も私の知らないどこかで幸せでいてくれたらいいなと思いながら。

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