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もやもやを哲学でほぐす

あなたが職場で会議のアレンジをする仕事があったとしよう。上司の「やっぱり直接会うのはいいね~!」という言葉は文字通りに答えるならば好みの表現にすぎない。しかしあなたはそう受け止めず、オンラインのほうが都合がよくても、忖度して対面の会議を設定するかもしれない。このような単なる好き嫌いを表す言葉は、場面によっては「要求」にも「強調」にもなり得る。言葉やコミュニケーションは僕たちに喜びを与えるが、否定や支配、そして時には暴力を生み出すこともある。

この本、「言葉の展望台」は言語哲学者である著者が、自分自身と専門分野の哲学を行き来しながらコミュニケーションについて語る「エッセイ」である。

著者はコミュニケーションとは「約束を守ること」という枠組みを提示する。「今日はいい天気だ」という会話が二人の間でなされた場合、この二人は「『今日はいい天気だ』と信じている者同士として振る舞おう!」と約束したことになる。その会話を交わしたあとに、片方が雨降りを前提とした発言や振る舞いをするならば、約束は守られなかったことになり、その人は「嘘つき」や「不合理」などと責められる余地が生じる。このようにコミュニケーションは話し手から聞き手への約束の持ちかけだ。対等な二人の間での天気の話であればたいした害は生じないだろう。しかし聞き手によって約束の意味が歪めれる「意味の占有」が起きることがある。話し手の望まない形で結ばれた約束であっても、その約束に従う義務が生じるので、話し手がそれに従わない場合は「嘘つき」や「不合理」と非難される。著者はこれを「コミュニケーション的暴力」と呼ぶ。著者は、女性・外国籍の者・非異性愛者・トランスジェンダー(ちなみに著者はトランスジェンダー)…などのマイノリティや、マジョリティから「不合理」などと責められるとき、この意味の占有が背後にあると指摘する。

普段見過ごしているけれども、僕たちの日常に不思議な言葉は多い。例えば、コンビニのトイレに「当店のトイレをきれいにご利用いただきありがとうございます」という張り紙があるが、まだ利用していない人に向けて「ありがとう!」と書かれていることの意味はなんだ。「ご不快な思いをさせて…」という謝罪はなぜ不誠実に思えるのか。「上から目線」はやはり有害なのか。本書では、「もやもや」する言葉を哲学によって解きほぐしていく。

僕は養老孟司の作品のような、学者が学問的な知識に基づいて自身やまわりを解読する学術エッセイが大好物なのだが、本書もそんな一冊だ。中でも、自身がトランスジェンダーであることをカムアウトし痛みに向き合った章、「哲学と私のあいだで」は秀逸だ。著者は

哲学は現実をさまざまな角度で、あるいはさまざまな解像度で見るためのレンズのようなもの

…というが、本書における哲学はレンズにとどまらず、自己を耕す鍬(くわ)であり、守る鎧(よろい)の役割も果たしているように見える。学問はこのような形でも「役に立つ」。そう、学問は役に立つ!のだ。

同時期に刊行された「会話を哲学する」では、アニメ「うる星やつら」に登場する会話(ラムちゃんとあたるの会話)を分析している。こちらについては別の機会に書きたい。

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