ぜろばん
「君は漸く人間に成れたのさ」
その言葉は真綿のように優しかった。
赤と青のオッドアイの瞳を甲斐甲斐しく伏せて、口元には笑みを浮かべ、いたって無害そうにそいつは言ってくれた。
カツカツと靴音が響いていた。鼻につくアルコール臭は、幾度も嗅いでいると頭の芯が痛くなってくる。新設されたばかりの病院のように手入れが行き届いている此処は、招かれた人しか足を踏み入れることを許されなかった。
ぼくはこの場所で生まれた。……と思うけれど、実際はそうじゃあないのかもしれなかった。いかんせん記憶が朧気で、思い出そうとすると吐き気と頭痛に襲われてしまう。
それ以前にぼく自身出生はさほど重要でもないと思っていたから、無理に思い出す必要性を感じられなかった。
ぼくはモルモットである。それは種族としてではなく、あくまで比喩としての。
「起きなさい、371番」
ぼくの一日は、ポマードをたっぷり塗りつけた、テカテカ光る髪のせんせいが部屋に訪れるところから始まる。
せんせいはぼくに教育を行っていた。それは簡単な足し算や引き算、読み書き、服の畳み方等生きていくに必要な情報だった。
ぼく以外のモルモットも、そういった教育を受けていたように思う。
無機質な眼は灰色を灯しているから、ぼくはせんせいの目をじっと見つめるのが苦手だった。
せんせいは教育の他に、モルモットに注射を打ったり薬を飲ませたりもしていた。たまに紙束を抱えて小走りに何処かへ駆けていく姿も見かけた。
跡をつけようにも、ぼくたちモルモットは一日の大半を部屋で過ごすので体力がなく、せんせいの足に追いつくなど夢のまた夢だった。
だから一度ばかり質問をしたことがあるように思えるけれど──それもまた、あんまり詳しく思い出すことが出来ない。
視界にモヤがかかる。それは時折部屋に噴射されるミストと呼ばれるものに酷似している。目の先が白色で濁されて、遠くを見渡すことが出来ない。……そもそも、部屋自体真っ白なのだけれど。
「こんな所からはとっとと抜け出そうじゃないの」
ぱちり、意識が返る。目の前には赤と青のオッドアイ、の人と、煤けた煙の臭い。空気が薄い気もしている。
そいつは頭上から黒猫に似た耳を生やしていた。お尻の辺りからは、これもまた黒猫に似た……けれど黒猫よりもふさふさの尻尾が、一本だけ生えている。
人間にも動物の耳が生えることがあるのだろうか、とぼんやり呆ける傍ら、現状を受け止めきれない思考がエスオーエス信号を訴えていた。
「……えと」
「どうしたの? 此処から出たくない?」
フリフリ、ふさふさの尻尾がみぎひだりに揺れている。オッドアイの人は全身真っ黒の服に身を包んでいて、けれどだからこそ白い肌が映えて見えている。
ぼくは唖然としたまま周りを見渡した。真っ白だった部屋は今やあちらこちらが穴だらけで、鉄骨がむき出しになってしまっている。
そもそも、黒い煙があいた穴からどんどん入り込んできていた。火災が発生しているのかもしれなかった。
「あ、あなたはだれですか。ぼくのしっているひとですか」
会ったことがあるようなないような、初対面のような。稚拙な頭と記憶で答えを叩き出すには情報が足りなさすぎる。
「あれー? 覚えていらっしゃらない?」
たどたどしく問いかけると、そいつはむっとした様子で下唇を突き出して眉根を寄せていた。
素直に首を縦に振ると、そいつの二つの目は二度三度と瞬きをして、一度だけ下を向く。
「そっか。まあいいやァ」
それから視線は上へと上がって、ぼくの目とそいつの目がこっつんこした。
「後で教えてあげるから、今は俺の言うことを聞いてね」
「なぜですか」
「なぜでもだよ」
伸ばされた両の手のひらは、黒い手袋に覆われていて素肌が隠されてしまっている。それはぼくの脇の下へと回り、一息つかぬ間に抱き抱えられてしまっていた。
効果音をつけるなら、ひょい。がきっと適切だと思われる。
そいつに抱き抱えられた時、ぼくはどういうわけか酷く懐かしい気持ちになった。埃っぽくて、深く息を吸うと鼻や口にゴミが入ってきそうな不快感がどうにも懐かしくてならない。
(どこかであったことがあるのかな)
けふけふと咳き込めば、そいつは小さくフフフと笑う。何がおかしいのかわからない。
「人間合格おめでとう」
ぽつりと呟かれた言葉の意味も、わからなかった。
そいつはぼくを抱いて黒い煙が舞う部屋を後にする。長いことこの場に晒されていたぼくの顔や服や手足は、煤埃に塗れているのかもしれない。
それはなんだか、このオッドアイの人に少しだけ見た目が似ているような気がして。あんまりいい気はしなかった。
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