拝啓、DQビルダーズ2制作スタッフの皆様
はじめまして。先日DQビルダーズ2(以下DQB2)をクリアしたファンの者です。京都に住んでおり、フリーランスで個人ゲーム開発をしています。DQB2を遊んで本当に楽しかったのですが感想を送る先がよくわからず、また開発後離職された方や一般ユーザーにも読んでもらえたらと思い、あとすごく長くて重いためご迷惑にならないよう、こちらに書きます。
逆さに浮いたスライムと何も作れない破壊神
2019年9月、なんとなくクラフト系のゲームが遊びたくなり、実況動画で見た「DQビルダーズ」(以下DQB1)を購入し遊んだところ面白かったので2も買おうか検討したものの、対応ハードを持っておらず、しばらく放置していました。しかし後日、実況動画でDQB2を拝見したところ、あまりにも面白そうだったので「買わなくては!」とSwitch Liteとソフトを買いました。ハード購入はVita以来です。
「買わなくては」と思ったのは、実況動画の冒頭でスライムの亡骸が海で静かに浮いているのを見て「スライムって死んだら浮くんだ…逆さまになって」「なんて想像力ゆたかな人たちが作っているんだろう」と心を奪われたのと、シドーがビルダーの真似をしてものを作ろうとした時に失敗したのを見て「実況ではなく自分で結末を見届けないと絶対後悔する」と感じたことがきっかけです。
子供のころからDQは1〜6とプレイしており親しみがありました。しかし大人になって後続のシリーズを遊んだところ、主人公が「悪魔の子」と呼ばれていて「どんなふうに迫害されるんだろう」とハラハラして進めたのに、割とそこには触れられないまま終盤を迎えてしまったため、CEROもあるしDQだからあまり突っ込んで書けないのか…DQで感動できないなんて、私も悪い意味で大人になってしまったと少しがっかりしたのですが、DQB2では何故か冒頭から「破壊神」がいい感じで描かれそうだ、という期待がありました。
私は個人でゲームを制作しており、創作にどうしてもついてまわる仕様変更や作り直しについて日々思うところがあったため、シドーが司るであろう「破壊」、ビルダーが司る「創造」がどんな物語を紡ぐのか非常に興味が湧きました。実際、手元に届いたDQB2を早速遊んでみると、序盤の「初めて作ってくれた武器だし(大切に持っておく)な」というセリフに「もしかして破壊と創造がテーマなのでは?」と嫌な予感がしたものです。仮にそうだとしたらゲームを「つくる」現場にいる人が描くからガチのやつなのではと。
QOLが低下するほど遊んだ
DQB1も楽しかったんですけど、DQB2は自分で引くほど長時間遊びました。連日DQB2を遊ぶ合間に攻略の参考になるDQB2実況を見るクズの鏡のような生活。休日はもっとひどくて徹夜で遊ぶこともあり、頑張ってお風呂に入るんだけど昨日の風呂か今日の風呂なのかもわからないまま、やめ時もわからず延々遊び続けてしまう。NPC住人から何かを頼まれる、いわゆる「お使いイベント」を引き受け達成して喜んでもらえると「次は何?」とつい聞いてしまい、施設を作って行列ができていれば改善するため奔走する、この明け暮れに伴い不穏さの増すシドーの魅力に抗えなくなって延々と続けてしまいました。
さすがに「ゲームやりたいんで働かない」っていうのはダメだし、1回休むと癖になってしまうだろうから頑張って毎日仕事してたんですけど、ムーンブルクに入ってからは完全に心が折れて生まれて初めてズル休みしました。
「DQだし」を忘れ、ずっと泣いてた終盤
序盤、モンゾーラではのどかに過ごしていたし、キャラの口調がどちらかというと子供っぽいため正直物語を少し冷めた目で見ていました。「DQだし、子供も遊ぶんだし、都合よく進むのでは」と笑っていたんです、マギールさんがアレするまでは。穿って見ていたのが覆され、死を「面白い」と表現していたシドーまで「こんな気持ちになったのは初めて」と変わっていく様子を見て、さらに続く大樹の話で「死」が明確に描かれたことで笑えなくなりました。今思うと、のどかな風土と子供っぽいセリフで限界までハードルが下がっていたところに描かれた厳しい物語だったので、反動でより心に響いたのかも知れません。
序盤から「まさか回収されちゃうのでは」と警戒していた破壊神フラグが後半になると全力で回収され始めて物語から目が離せなくなります。フラグなどという生易しい呼び名では足りない、DQB2においてセリフの端々や物語に散りばめられた数々の要素は「地雷」です。果てはムーンブルクで明示されたとおり「神はいない、死者は蘇らない」死生観がはっきりした世界だと認識していた、一方で「DQだし、子供も遊ぶんだし」シドーが永遠にアレすることはないはず、という不安を抱えたまま終盤に突入しました。
ここに至るまですでに不穏だったしシドーも途中から必要以上にこっち疑ってきたり、サブタイトルでも破壊神ってハッキリ書いてるから展開がまったく予想できていなかったわけじゃないのにどうしてこんなに涙が出るのか、寝不足だし仕事はさぼったダメな大人だしリアルにお腹も空いてるし、メソメソ泣きながら彷徨う赤い世界が美しくて、でもマント燃えるし素材ないし、どうすれば…えっ素材あれ素材にするの? なんかその設定めっちゃ色気ない? 考えたの誰だよクッソ表彰してやる
「ブロックメイク」RPGのはずなのに物語がオマケではなく、特に中盤以降のセリフに畳み掛けられ「もおおお何なんこのゲーム?」と腹立たしささえ覚えながら、開発者の端くれであるはずの私は作り手の目線を奪われ単なる一人のプレイヤーと成り果て、ただ泣きました。「こいつが作るものならなんでもいい」で陥落し、「息の根を止めてさしあげましょうか」の回収に圧倒されて泣き、「助けてくれ」で「今まで全然頼み事なんかしなかったくせに」とボロボロ泣き、「ともだちを探しにきた」でホロリとして、立てかけられた棍棒を視認した瞬間に震えて泣き、「初めて作ってくれた武器だから(回想)」で「ほら出たああもおおお」と大泣きし、車に乗れば「面白い、いい人生じゃないか!」の吹き出しでまた泣かされて、もう勘弁してくださいと思っていると「もしも…もしもだ、これから先オレに何かあったら(回想)」おいやめろ、「アイツはいつも、おもしろそうに作ってた」やめるんだ
次々と押し寄せる感動と仕込まれていたフラグいや地雷により最後まで冷めることがなく世界に没頭したままゲームをクリアしました。エンディングに「この道我が旅」が流れているのを聞いてふと「あれ? これDQの曲じゃ……あ、DQだった」と思ったのを覚えています。クリアする頃にはもう「DQだし」という思い込みは消えていました。
ものづくりを肯定しつづけるキャラクターたち
主人公はずっとむき出しの本が入ったリュックを背負っており、海に落ちたり吹雪の中を歩いたりするのになんでこんなデザインにしたんだろう、とゲーム中で本の話題が出るたび訝しんでいました。その反動もあり、本がなぜ大事だったか判明するシーンでタコ殴りに遭ったように泣きました。あのエピソードは全く他人事ではなく、小さい頃から漫画や文章を描く真似事をし、そのまま大人になってしまった私には心当たりがあり過ぎたのです。セリフを書かれた方にそんなつもりはなかったかも知れませんが、まるで自分が肯定されたようでした。
思えばシドーや他のNPCにも「ビルダーとものづくりの味方である」と受け止められる台詞がいくつもあります。先だって自分が開発したゲームのテストを行ったところボロカスに言われやさぐれていた私の心に、シドーを始めとする仲間たちの台詞はめちゃくちゃ刺さりました。「四角い建物ばかりになっちゃうって気にしてない? でもどんなものでも好きよ」「評価を気にして作るなんざ三流のすること」「いいねがつかなくても気にしない」さらに「何か言う奴がいたらオレに言え、ギタギタにしてやる」台詞が刺さりすぎてメッタ刺しで、ギタギタになったのは私の方です。終盤ものづくりが「万歳」と讃えられるのとは似ているようで対象的で、作っている者としては、何も「すごい、神」と持ち上げられたいわけではなく、ただ何作ったの、次は何作るの、と聞いてくれる誰かがいるだけで救われるのかも知れません。
ゲーム開始当初から気になっていた、創造につきものの「破壊」が擁護されるシーンではほっとしました。私は個人でゲームを作っていますが、業界経験はなく効率のよいやり方も分からず、手を動かしては失敗し、仕様を変更してはプログラマさんを困らせ、文字通り「破壊」を繰り返しているのですが、もし「破壊=悪」である、と定義されてしまっては立つ瀬がなかったところです。
DQシリーズでは、喋らない主人公を置くことでユーザーが感情移入しやすくなっていると思うんですけど、DQB2では「主人公=私」みたいな話ではなく、私がビルダーだったというか、誰もがみんなビルダーだよみたいな、不思議な余韻が残っています。
ただひとつ、心にそぐわなかったシーン
私は男の子主人公でゲームを遊んでいました。自分とは性別も年齢も全然違うのに、ゲームを進めていて「私はこう思っていないのに、なぜ主人公はこんな言動をするのか?」といった感情の齟齬がなかったのには驚いています。
強いていうと1シーンだけ…某ダンジョンの後シドーと再会するシーンで、起き上がったビルダーがシドーに「怒っている」と言われ、それに対してビルダーがなぜ怒っているのか説明もするのですが、私はそのとき怒るどころか再会の安堵と(経緯はどうあれ)辛い思いをさせたであろう申し訳なさと、いざというとき頼ってもらえなかった無力の上に「楽しい薬草づくり」の追い打ちが重なって涙腺が決壊しており「ちがあああああうう!! 怒ってねええええ!!」ってなってました。おそらくそこへ至るまでにビルダーと私の思いに齟齬がなかったのは「感情」でなく「言動」や「周囲が代弁すること」で示されてきたからで、ここへきてあえて感情について言及されたのには意味があるとは思いますが、ならせめて「怒っているのか?」 「はい ▶︎いいえ」 が欲しかったです。
創作において「作者の10分の1ほども読者は感動していないと心得よ」と聞いたことはありますが、あの場において少なくとも私はスタッフの皆さんが考えていた以上に感動していたことはお伝えしておきたいです。
制作スタッフの皆様へ
大人になってからこんなに感動する、好きになる作品に出会えるとは思いませんでした。控えめに言って愛しています。DQB2は私にとって間違いなく最高峰のゲームで、人生で一二を争うというか今ほぼ一位です。子供の頃に熱中した何某か、特に「遊び」というものは、歳を経ると色褪せ消えていくものと決め込んでいたのですが、こんな風に新たに出会えることもあるのだと知り老い先に楽しみを見出すこともできました。
エンドロールで流れる数百人かというたくさんのお名前、著名な方は元より、現場の功労者に、そして面白さの裏に隠れがちなたくさんの大変なことを乗り越えて世にDQB2を送り出してくださったことに感謝します。
関わられた会社が栄えるのはもちろん、スタッフの皆様一人ひとりがこれからも元気で、またいいゲームを作りたいと思える環境が守られ、いいものを食べたり、いいところに住んだり、適切に休暇を取ったりできますように、祈るだけではなく私もできる範囲で関連商品を買い、もし次回作が発売されるならその資金になるよう、もうちょっと頑張って稼ぎます。
ゲームを終えてしまってビルダーと仲間たちのその後をこれ以上知ることができないのは寂しいですが、DQB2を知ってから以前よりも毎日が楽しく、DQB2が遊べる時代に生まれて、とても幸せです。ありがとうございました。
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