ぬるいお湯に浸かる

 ぬるいお湯であればあるほど、長い時間浸かってしまう。
 一人暮らしであることと、一回だけ使ったお湯を捨てることを惜しむ性分と、あまり二日目のお湯の汚さみたいなものには敏感でないことから、二日目はおいだきして同じお湯に浸かる。これは一人暮らしの祖母がやっていたことで、わたしは当たり前のようにそれを続けている。どこかで、たぶん、これを受け入れられない人もいて、普通に考えても二日目のお湯ってかなり汚いんじゃ、と思う自分もいる。

 夕ご飯の片付けが終わって、一息ついたら「おいだき」ボタンを押す。「オイダキ ヲ シマス」女性の声が告げる。テレビの音声と、このお風呂の音声が、わたしの家で普段聞こえる他人の声だ。無機質なお風呂の音声を、人としてカウントしていいかは分からないけれど。

 十五分ほど経って、軽快な音楽がリビングに響く。ヴィヴァルディの「春」だ。そこで、いつもわたしの怠惰がぼやく。お風呂入るの、面倒じゃない? おいだきをしておいて、面倒だというのはどうにも馬鹿らしい話だけれど、そのときわたしの身体はぐっと重くなる。幼い頃、ふざけて友人と三十キログラムほどあるお米を売り場で落としてしまい、元に戻せなくなりそうになったことがあるが、そのときのお米くらい重い。わたしの体重は三十キログラムを超えているし、実際に考えてみても、さらに重いのだが。お米を落としたときは、このままでは叱られるという怯えから、どうにか友人と協力して戻すことができたが、叱ってくれる人のいない部屋ではどうしようもない。それからツイッターを見て、誰も呟かなくなったらYouTubeを見て、飽きたらまたツイッターに戻れば少しだけでもタイムラインが進んでいる。お手本のような怠惰を繰り返していると、簡単に二、三時間は過ぎる。

 あ、そろそろまずいな。日付を越えるか越えないか、くらいのところで我に返る。ああお風呂お風呂、おいだきしたんだった。着替えを用意して、足をどうにか進めればそこからは早い。あっという間に身体は湯船に浸かっている。もちろん、おいだきをしてしばらく経ったお湯は、ぬるくなっている。おいだきのときは、ぬるくなったら自動で温めてくれる機能は、少なくともわたしの家のお風呂にはついていない。

 中に入ったその瞬間は、あれ、放っておいたのに意外と温かいな、と思う。だが、入って時間が経つと、その温かさが消えていく。ぬるいな、いや、もしかして、冷たいかも。冷たいと温かいの間を、ぬるいと称するならば、このお湯の温度は、冷たいとぬるいの間にある。冷たい寄りのぬるい、と言ったところだ。おそらく、冷えた自分の身体の温度でただでさえぬるいお湯が、どんどん温度を下げているのだろう。高校一年生のときに習った、熱平衡という言葉が浮かんでくる。熱平衡の計算は、嫌いだった物理の中では、けっこう好きだったから、覚えているのだ。

 温まることを目的とすれば、早く身体を洗って、お風呂を出て、着替えて布団に包まった方がいいに決まっている。しかし、わたしはこのぬるさが気持ちよくて、ぼんやりと長時間浸かってしまうのだ。そこで、昨日作った卵焼きは、もう少し早くかき混ぜたらもっと半熟で美味しかったかな、だとか、竜田揚げを作ったら油があとわずかになったから、明日買ってこないとな、だとか、明日は何を着よう、気温はどれくらいだったかな、だとか、そういえばわたし、まだ薬飲んでないな、だとか、そこで考えても仕方のないことばかりを考える。お風呂に入るまでにも時間をかけたのに、入ってからも時間をかけるのだ。ほのかに光る電気だとか、なぜか黄緑色の浴室の壁に出してみた足だとかを眺める。肩までゆっくり浸かってみたり、背中を湯船の底につけて足を思い切り出してみたり、湯船の片側に身を寄せて、身体を丸めてみたりする。水温は変わらないし、むしろ下がっているような気もする。

 どうしてこの温度が、わたしを湯舟から出さないようにするのだろう。たぶん、中途半端だからだ(これも、ぬるいお湯の中で考えた)。わたしみたいに、中途半端。熱くもないし、冷たくもない。ちょうどいい温度かと言われれば、それも違う。夜はどうしても反省をしてしまう。わたしって中途半端な人間だ、ともしばしば思う。それを同じく中途半端なお湯に包んでしまおうとしている。熱いお湯では上手に包めない。オムライスを作るときに、強火にしたためにすぐに硬くなってふわふわにならなかったことがある。きっと、それと同じだ。いや、分からないけれど。今日はそういうことにしておく。真夜中に入るお風呂は、ぬるければぬるいほどいい。


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