野良猫学級 第16話 追い出し

――緞帳を巻き取る機械音が止まり、静まり返った体育館で、おれはそっと目を開けた。

 ステージ中央に置かれた指揮台の前に立つ環菜。下手には、奥から引っ張り出してきたピアノと、その前に立つ杏子。ステージ後方にはひな壇まで段取りしており、桃果、百合……皆が並んで立っている。文化祭のそれが目の前でそっくり再現されている。髪やら化粧やらといった奴らの風貌はあの日とは違い、いつもの見慣れた十三組の野良猫共だ。
「何だよお前ら。おれのために歌ってくれんのか?」
「ほうよ!わざわざアタシらがここまでするんやけん、耳かっぽじってよう聴いときよ!」
 百合の野郎、偉そうに言いやがって。
「うちが皆んなに言うたんよ〜。タツ兄、自分で辞めるって言うの恥ずかしかったんよね〜?」
 杏子が環菜に漏らしたのかと合点がいった。まぁでも、ついおれの口から出てしまったのだからしょうがない。別に咎める様なつもりではなかったのだが、ピアノの前に立つ杏子に目をやると、ふいと目を逸らされた。
「ってか!辞めるとかウチら聞いてなかったんやけど!」
 桃果の一言が皮切りになったのか、おれへの悪口雑言が続々と飛び出してきた。
「一年も一緒におって、そんな大事なことなんでちゃんと言わんの!」
「これやけん大人は嫌いなんよ!隠し事ぎりして!」
「ってかそもそもなんで辞めるんよ!」
「一緒にディズニーランド行くんやなかったん?」
「私らのことが可愛くないん?」
 次々とぶつけられる悪たれ口。何だか少しだけおれは目頭が熱くなった。これ以上言われるとおれの涙腺が決壊してしまいそうだったので、少し悪態をついた。
「馬鹿野郎!今からてめぇらのステージを見る客だぞ、おれは!客に向かって野次飛ばす奴らがあるか!さっさと始めやがれってんだ!」
 おれに負けじと奴らも、「分かったけん!」、「今からやるんやけん黙っといて!」と声を荒げる。

 環菜がひな壇の方へ体を向け指揮台に上がると、杏子もピアノに着く。再び体育館が無音に包まれた。
 少し間を置いてから環菜が両手を掲げると、それを合図にした奴らの足を開く音の粒が、一つに揃って体育館に響いた。この一年間の集団行動の賜物だ。統率された動きというものはただそれだけで美しい。何のことはない。ただ指揮者に合わせて足を開くだけなのだが、見ている者に、この身を美しく見せようという心があるからこそできることだ。こいつらのギャップに萌えて、おれはすっかり心を奪われてしまった。
 環菜の指揮、杏子の伴奏が、掴んだおれの心を優しく引っ張る様に、ゆっくりと走り出した。そして桃果、百合、皆の歌声が、その後に続く。


"ああ あの町で 生まれて 君と出会い
たくさんの思い抱いて 一緒にときを過ごしたね
今 旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空 きっと見上げてるはず
「またね」と手を振るけど  明日も会えるのかな 遠ざかる 君の笑顔 今でも忘れない
あの日見た夕陽 あの日見た花火 いつでも君がいたね
当たり前が 幸せと知った
自転車をこいで 君と行った海 鮮やかな記憶が
目を閉じれば 群青に染まる”


 間奏に入った時、伴奏に紛れて、涙に咽ぶ桃果の声が耳についた。桃果の咽ぶ声に釣られた奴らが、一人、二人と広がり、そこかしこからも啜り泣く声が。それでも、一度走り始めた環菜の指揮と杏子の伴奏は、止まることなく皆を引っ張っていく。


“あれからニ年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも思う
響けこの歌声 響け遠くまでも あの空の彼方へも 大切なすべてに届け
涙の後にも 見上げた夜空に 希望が光ってるよ 僕らを待つ 群青の町で”


 鼻水垂らして歌っている桃果のせいで、途中からすっかりステージは台無しだ。百合なんざ、すっかりマスカラが溶けて目元がボロボロになっている。
 音も声もバラバラで、もはや合唱と呼べる代物ではない。皆のこの有様を見て、お前は今もヘラヘラしてるのか、環菜。見るに絶えないのは分かるが、指揮者のお前が再々下を向いてちゃあ、揃うものも揃わないだろう。
 最後のサビに入る直前、一瞬伴奏が詰まった。目なんか拭ってるからだよ杏子。伴奏までガタガタとあっては、いよいよ何をしているのやら分からなくなってしまうじゃないか。


“きっとまた会おう あの町で会おう 僕らの約束は 消えはしない 群青の絆
また会おう 群青の町で...”


 後奏が終わり環菜の手が下がると、体育館には鼻水を啜りしゃくり上げる音だけが残った。

 しっかり目に焼き付けておこうとしていたはずなのに、こいつらがダラダラやってるせいで、視界がぼやけてはっきり見えやしない。見ている人を感動させたい。その想いから、文化祭でこの合唱を選んだはずだ。それがどうしたことか。こんなひどいステージ、おれ以外の者には見せられたものじゃない。担任は控室に入ったままでいてくれて良かった。おれは瞼でぐっと涙を押し込みながら立ち上がった。

 体育館に引き戻されたさっきまでは、おれはこいつらに謝ろうと思っていた。合唱の前、こいつらが吐き出した言葉も、それはそれで、肚の底から出た本音であろう。やはり、おれが退くことを、きちんと伝えておくべきだったのかもしれない。一言くらい謝ろう。そう思っていた。
 でも、全てが終わった今、そんな思いは、すっかりおれの頭からは消え失せていた。それにもう今さらそんな言葉、お前らもいらないだろう?涙と鼻水と崩れた化粧にまみれたこの汚い合唱で、心は一つになれたよなきっと。

 おれは息を大きく吸い、二言だけ。
「ありがとう!てめぇら、またな!」
 それだけ振り絞ると、まだグズグズ言っているあいつらにおれは奴らに背を向け、体育館の出口へと向かって歩き出した。少しずつ汚い音が遠のいていく。出口の前に差し掛かった所で背中を押す様に、奴らの潤んだ声が飛んで来た。
「ウチらのこと忘れたら許さんけんね!」
 そんな汚ぇ桃果の声、忘れたくても忘れられねぇよ。
「アタシが大人になったら飲みに連れてってよ!」
 その時にゃあよ、もっと良い女になってなよな。百合。
「うちらに会いたくなったらいつでも帰っておいでよ〜!」
 お前こそ。いつでも訪ねて来いよ、環菜。
 どいつもこいつもすっかり化粧は崩れて、くしゃくしゃの顔をしているのだろう。そんなもの見てしまったら、おれにまで汚い顔がうつってしまいそうだから、振り返ることはしなかった。
「タツ兄!わたし……絶対先生になるけん!」
 うん、なれるよ。お前なら。
 やや湿っぽい別れになってしまったが、『猫は三年の恩を三日で忘れる』なんて言うから、お前らなら明日にはもうケロッとしてるのだろう。
 逆に、『猫も三日飼えば恩を忘れず』とも言うから、もしかしたら今日のこの気持ちも、この先覚えているのかもしれない。おれは背中越しに右手を挙げ、そのまま体育館を後にした。

 体育館から出て向こうの方を見上げると、少し滲んだ青空があった。ここから見える空も目に焼き付けようと目を擦ったが、すぐにやめて顔を戻した。ここからあいつらが見る空も、この先おれが見上げる空も、きっと同じはずだから。

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