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おいしいパン屋が永遠に続きますように

パン屋と縮むGDP

家の近くに40年ぐらい続いているパン屋がある。僕が生まれる前からあって、死ぬときまであってほしい。イートインでおいしいパンを食べてから仕事に行くこともある。小さな丸机と、古びたトースターでパンを温めて食べると、これほど幸せなことがあるだろうか、という気持ちになる。

パン屋の歴史は古く、人類というよりその文明社会と共にあった。中世にはパン種を持って行くと焼いてくれるパン焼き屋さんがあったし、日本では安土桃山時代にはパン屋があったという。密閉式のオーブンが出来てから、つまり戦後になってからはパン屋は個人でも営業できる早起きのお店となった。

そのパン屋と喫茶店が危機に瀕している。

小売りとその永遠

2月18日付けのニュースでは10月から12月期のGDPがマイナス6.4%に至ったとのことである。このGDPは以前の計算方式をやめてあれやこれやの数字も投入しているから、この「マイナス」というのは並大抵の数字ではない。実際問題財布の紐を緩める暇もなく、正直欲しいものも買えなければ欲しいもの自体がない。

喫茶店もバカスカ潰れている。

そのきっかけははっきり言えば派遣社員やアルバイトなどで食いつながざるを得ない「奴隷」の量産にある。小売りや飲食は10%に上がった消費税に耐えられず、喫茶店より缶コーヒーの割安感は生命に直結している。喫茶店に入ってもみな暗い顔をしてキーボードを叩くだけで、当てにしているはずのコーヒーの注文をするものもいない。こうなったのは、街に「座れる場所」がないからだ。

空き地や公園をすべてマンションにすることで、効率的な絶望が量産されている。そのような絶望をこそ嫌った戦後日本も明治の開花も、あるいは江戸の風雅も、令和の時代には存在していない。かつて永遠に続くかのように思われた小さなお店はなくなってしまった。そしてそもそも、小さなお店はなくなってしまうのだ。

再襲撃されるパン屋の幸福

村上春樹の『パン屋再襲撃』という短編小説は、意気地なしの「ぼく」が、意気地の所在をめぐってウロウロする話である。妻(どうやって結婚したんだ)は鮮やかな手つきでパン屋への強盗を成功させるのだけれど、その手際の見事さはむしろ「パン屋」がそこにあり続ける奇跡によって成り立っている。

 90年代までの鷹揚な、つまりエリートが読んでエリートが褒め称えるような文学作品には多くこうした「パン屋」のような無機質で個性のない存在が描かれる。パン屋は永遠にそこにありつづけるものだった。だからパン屋に恩義も義理も感じずに、再襲撃する見事さの内面を描きえた。そういう時代があった。

増税は失敗だったと認めてほしい

もうパン屋はない。儲かる商売ではない。ヤマザキパンの洪水だけが地球を覆い続けていくだろう。いろいろな思いがある。世界は全部マンションになってしまい、庭のある家や木々が生える空間はもう存在できなくなってしまた。

いろいろな思いがあると思う。ただ増税は失敗だったと認めて欲しい。いま思うのはそれだけ

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