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極めたっていってたのに、そんなところで終わるのかよ!

 それは砂利に似ていた。そしてショウガでもあった。ソースでもあった。それらを混ぜこぜにして乾いたスポンジに挟み込み、干上がった牛脂と一緒に食べた。それは砂利に似ていた。砂利をはんだような食感が、元々は天ぷらの皮だった小麦粉に託されていた。

 小麦粉は彼らを抱きしめる愛を失って乾いていた。何もかもが乾いていた。乾燥したバンズは粘度の高いソースの表面を弾き、内部に水を浸入させまいという強い意志を持っていた。一言でいおう。

 ゲロマズ、と。

 ここ数年、くら寿司は寿司以外の食品提供に余念がない。どれほどコストを削減しようと寿司は魚である以上値段が高くて資源が限られている。それに比べれば、うどんや担々麺は安定して供給しやすいのだろう。人手不足をマシン化で、鮮度の消失をカバーの設置で補ってきたくら寿司らしい〈合理的な〉展開だ。

 そのくら寿司の秘密平気。
 それがハンバーガーだ。

 そのハンバーガーが「KURA BURGER」だ。

 しょうじき、いったいどんな酔狂が寿司屋でハンバーガーを頼むのか想像もつかない。だが、頼んでみてわかった。操作ミスだ。このハンバーガーは若干反応が良すぎるタッチパネルの操作ミスで注文が可能だ。

 ぼくは極みチーズフィッシュバーガーを頼んでしまったのだ。


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 HPによる「さらにおいしくなった」とある。 極みフィッシュバーガーはこれ以上ないほどまずかった。上記の描写を反芻しながら聴いて欲しい。それはカラカラのバンズに、干からびたスパムのような加工肉と申し訳程度のレタス?が挟まれ、なぜかその上下に魚の天ぷらが挟まって登場した。

 天ぷらである。

 天ぷらには満遍なくショウガの香りが漂う濃厚なソースがかけられており、強烈な濃密さはレタスの風味を必滅せんという凄まじい意思によって貫かれている。というか、食べるとショウガとソースの味しかしない。

 味はショウガとソースのはずなのだが、食べるとパサパサになった天ぷらの皮が少しずつ剥がれて粉砕され、細かな粒子となっていった。その外皮はソースで柔らかく、内側は鉛のように堅い。その堅さと一緒に口内に流れ込んでくるのが加工肉である。生暖かく、あぶらっぽく、出来損ないのベーコンのように歯切れがわるい。

 なんといっても、うまいとかまずいとか以前に食事を作っているという気概が感じられない

 たしかに食べる前は少し楽しみにしていた。僕はくら寿司にたいして恩義を感じていた。孤独なとき、ちょっとお寿司が食べたいとき、それなりのうどんが食べたいとき、駅からあまり離れたくない時、くら寿司はそこにあった。

 店員は礼儀正しく、びっくらぽんで出てくるオモチャも時に楽しみであったはずだ。だから、KURA BURGERも、まずくは、ないはずだ!

 しかし、その期待はすべて裏切られた。注文ボタンを押したら奥から「えっ」という小さな声がした。まさかくら寿司でバーガーを頼む個人客がいるとは思われていなかたったのだろうかと推察する。それから10分以上まち、ようやくでてきたそれは生まれることに失敗したハムスターの子供のように無残な何かであり、それは白い長椀にうやうやしく鎮座しながら、丁寧にバーガーペーパーに挟まれて出てきた。

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 この、バーガーはさらにお茶にまったくあわない。本質はパンと肉であり、どれほど工夫しようとお茶との相性は「ぎりぎり飲めなくない」を超えられなかった

 僕は胸いっぱいの失意で帰路についた。おいしくない、なんてものではなかった。人を悲しませるマズさだった。だが、ぼくはくら寿司に恩義を感じる存在だった。だから、まだくら寿司のKURA BURGERには「肉」が残っていることをしっている。この「肉」を食べねばならない。

 そんな気持ち。


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