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『うちのクラスの女子がヤバい』(漫画感想)無意味で有意義な非日常

今回は、衿沢世衣子先生のキュートで愛すべきSF学園コミック『うちのクラスの女子がヤバい』を取り上げたい。

作品の舞台となる1年1組の女子はみな、「無用力」という超能力を持っている。「無用力」というのは、その名のとおり、役に立たない力のこと。

例えば・・・

人体を内部まで透視できる!

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とか

睡眠時に見た夢が空に浮かぶ!

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とか

足元にきのこを生やす!

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・・・などなど。しかも役に立たないばかりか、自分でコントロールすらできないところがミソ。そんな役に立たない超能力「無用力」を中心に据えられた学園ドラマが描かれる。

さて、本作は考察しようと試みると、たちまち捉えどころのなくなる傑作である。というのも、作中では、そもそも無用力とは何なのか、いかなる理由で発現し収束するのかといった答え合わせはされず、むしろ無用力をきっかけとして始まる学園ドラマのほうにスポットがあたる。

オムニバス形式の各話も、物語全体として見ても一つのドラマとして見事に完結しており、下手な考察を挟むのは野暮のように思える。

一方、しばしば各人のコンプレックスや心象を反映しているかにみえる無用力、時折見られる各キャラクターの意味ありげな台詞・・・「人は勝手にコケるものだよ」「くりかえしているようで同じ波は1つもないの」・・・等ー 、ある種の哲学を感じる部分が随所に見られ、読み手に下手に考察させずにはおかない作品でもある。



※以下、ネタバレ含みます。ご注意ください。



無用力って何?

無用力って、一体何だろう。ということで作中の設定を簡単にまとめてみます。


正式名称:思春期性女子突発型多様可塑的無用念力

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思春期の女子に突発的かつ多様な形で発現する、可塑性を持つ役に立たない念力といったところか(そのまま・・・)。可塑性とは、力を加えて形状が変化しても元に戻らない性質のこと。粘土みたいなもんですね。


発現期間:主に高校3年間

13話に登場する鳩子の様に、卒業後、成人した後も、能力が消えないケースがまれに存在する。


発現要因:様々

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能力のタイプは様々だが、そのどれもが本当に要らない能力ばかりだ。人体を透視できる、指がイカになる、モスキート音を出せる、睡眠時に見る夢が空に浮かぶ等ー衿沢先生は役に立たない能力を考える天才である。

無用力の発動条件も様々だが、多くはコントロール不可能なものだ。例えば、2話に登場する扇花の無用力であれば、イライラした時。3話に登場する点子の無用力なら、本人が困惑して、テンパった時のみ。

一方で、1巻5話に登場する、「食べると一日分の記憶が消えるおにぎりを握れる」ミクニや、3巻11話の「目を閉じているときだけ壁を歩ける」沐念の無用力などは、コントロール可能な部類に入る。いわゆるチート系の能力。

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というかこの二つに関して言えば、よくよく考えるととんでもない能力なんじゃないかという気もする。しかし、実際はどこをどう読んでも無用としか思えないのが、作者の説得力。彼女らには無用力を利用しようなどという気は全く無さそうだし、高校3年間という特殊な期間においては、結局いずれの能力も無用なのである、というそもそもの前提が作品からは感じられる。

個人的に好きなのは、3巻9話に登場するメカブの無用力。彼女の無用力は、「撮った写真の被写体を想う人物が、被写体の背後に生き霊となって映る」というもの。

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一体どこからこんな発想出てくるんだろう。それぞれの無用力の発想ももちろんだが、無用力とドラマが有機的に絡み合っているところが本作の凄いところ。全16話中、無用力とドラマどちらかが置き去りになる回が1話たりともない。9話「メカブ現像」も、メカブの無用力が最後に青春ドラマひいては人間ドラマとして見事に昇華される。

さて、無用力を無用たらしめている最大の要因はやはり、コントロール不可能なところにあるといえる。本作では「無用力コントロールベルト」なるものがたびたび登場する。ベルトの能力を目の当たりにしたキャラクターの台詞に注目してみる。

初登場は2巻8話 「ふたば+れもん」。蓋葉とレモンが旧校舎で偶然ベルトを見つける。ベルトを装着したことにより、二人は能力を暴走させるが、最終的には自在にコントロールできるまでになる。その後の、蓋葉とレモンの台詞。

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「だぶん無用力を有用なものにしてくれるこのベルトは返そう」(2巻p.93)

更に、3巻14話「球体と丹波ちゃん」。学年対抗のドッヂボール大会にて、ベルトを使って無用力をコントロールする対戦相手の2年1組に対しての、リュウの台詞。

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「無用力じゃない コントロールできたらただの超能力だ」(3巻p.114)

作中のキャラクターにも、コントロール可能な無用力はもはや超能力、との意識があるようだ。

ところで、超能力ものでありながら、超能力バトルの存在しない本作にも、1年1組に対立する存在がたびたび登場する。それが、2年1組の女子及び謎の組織。彼女らに共通するのは、無用力を有効活用しようとしているところ。彼女らに対し、1年1組のクラスメイトは時に対立し、時に取り込まれそうになる。

3巻14話「球体と丹波ちゃん」では、学年対抗のドッヂボール大会で、ベルトを使って無用力をコントロールする2年1組と対決する。

2巻10話「Re:ヤマモト」では、点子が2年の糖堂センパイ率いる「無用力有効活用隊」に勧誘され、一時は協力の姿勢を見せる。が、10話の終わりでは、糖堂センパイに活動をやめると告げている。

さて、8話のラストには、蓋葉とレモンのこんなやりとりがある。

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「今しかない無用力をもう少しアピールしようと思った」(2巻 p.96)
「コントロールも習得も出来ないし ある日 突然 消えちゃうってのも悪くないかもね 私たちの無用力」(2巻 p.96)


これらの対立構図や会話から分かることが一つある。それは、1年1組ひいては本作の正義がどうやら、

「無用力を無用のままにしておく」

であるということだ。

無用力は期間限定で思い通りにならないものである。何の前触れもなく突然始まって、時に頭を悩ませ、時に頼もしく、そしていつの間にか過ぎ去っている。それは無用力から生まれるドラマ、ひいては高校3年間という特殊な期間だって同じだ。しかしだからこそ愛おしく、大切なものである。無用力は無用であるからこそ、希少でかけがえのないものなのだ。

そう考えると、「無用力」とは、無用といいつつ、この世には無用なものなど何一つ無いことへの逆説のように思えてならない。




1年1組ウィルコさん

作中最も謎めいており、物語の要とも言えるキャラクター、ウィルコさんについて語らねばならない。

最終16話「1年1組ウィルコさん」にて明らかになるウィルコさんの無用力は「1年1組をループする」というものだ。作中では、1年1組を既に6年間ループしており、本作の物語がその7年目にあたる。

作中、しばしば登場するウィルコさんはクラスメイトに対し、時に優しく、時に厳しめに助言を与える。ウィルコさんは、そのまるで全てを知っているかのような佇まいから、クラスメイトに一目置かれている。

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ウィルコさんのおよそ高校生らしからぬ落ち着きは、高校1年生を7年間ループしている事実にて説明がつく。しかし、未だ謎は残る。

例えば、彼女はクラスメイトに助言を与えながらも、それぞれのドラマには深く干渉しない姿勢を一貫してとっている節がある。

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この時も。

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この時も。

これについては、16話p.170 のモノローグに答えがあるような気がする。

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上のコマから読み取れるのは、ウィルコさんが1年1組の「傍観者」的な立場であるということだ。さて、物語の形式上の意味合いにおいて、「傍観者」とは一体何のことだろうか。「傍観者」とはすなわち「狂言回し」の一形態である。狂言回しについては、手っ取り早くwikipediaの説明を引用させていただく。

端的に言うと「進行役」「語り手」「語り部」に当たる役割である。作品によってその登場頻度には差異があり、全編通して登場する進行役の場合もあれば、物語の冒頭と最後に顔を出し解説を加えるのみだったり、あるいは物語が複雑になった時に現れて観客の理解の手助けをしたり、など、その使われ方は様々である。
物語の中の世界にて観客の視点を代行する役割を果たすため、基本的には、物語そのものに関わることはない。

更には創作における傍観者の例として、次のような説明がある。

火の鳥(火の鳥)
実際の主人公は火の鳥にまつわる人々で(編により異なる)、基本的には傍観者である。また、主要な登場人物である猿田彦の血を引く者が、編によって、主人公を務めたり、狂言回しを務めたりしている。
喪黒福造(笑ゥせぇるすまん)
主人公であるものの、実際的にはゲストでもあるお客様が中心となっているため、基本的には上記の火の鳥と同様、傍観者である。

物語内では、p.170の時点でウィルコさんは時に取り残された傍観者になることに決めたに違いない。

上記の説明から分かるように、物語的にはもちろん、メタ的な意味で捉えた場合においても、「傍観者である」ということは「常にドラマの外にいる」ことを意味する。

一方で、ウィルコさんの仕草や「おさまりどころは決まっているのだから」等の台詞からは、それぞれのドラマや問題は当事者の内で解決すべし、という彼女(もしくは作者?)の姿勢のあらわれであるようにもみえ、そのことが彼女の人物造詣に深みを与えている。

次にウィルコさんの無用力の発現要因を見てみよう。ウィルコさんの1度目のループが発動する直前の3巻p.162。

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上のコマから推測できるのは、無用力の発現要因が、ウィルコさんの1年生のままでいたい、という強い思いにあるということだ。特別な期間を終わらせたくないがゆえのループはアニメ『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」をはじめとする、日本サブカル史に連綿とうけつがれる名設定である。

ところで、ウィルコさんのエピソードが本作のラストに据えられたのは必然ではあるものの、見事という他ない。なぜなら、上のウィルコさんのモノローグは1年1組の物語を今まで楽しく読んできた読者の気持ちの代弁でもあるからだ。作中のキャラクターはかつての自分であり、あなたかもしれない。現在のあなたである場合もある。しかし同時に、読者はみなウィルコさんであり、傍観者の立場にいるのである。

終業式間近、小窓は自身の無用力、通称「睡眠式座席固定ランダムタイムスリップEYE」により、ウィルコさんが1年1組を7年間ループしている事実に気づくこととなる。この小窓の無用力は、教室で寝ると視点だけタイムスリップし、校舎が出来てから7年間の過去の教室をキョロキョロできるというものだ。ウィルコさんを取り囲む、クラスメイト。終業式の日、16時を過ぎると、クラスメイトの記憶からウィルコさんが消える。何か方法はないのか、と詰めるクラスメイトに対し、ウィルコさんは叫ぶ。「もう1年生はあきたの わたしだって2年生にあがりたい!」16時を過ぎてもループしないウィルコさん。歓喜するクラスメイト。

16話で注目すべきは、これまで1年1組の物語を傍観する側であったウィルコさんが、今度は小窓の無用力によって物語を傍観される側になるという事実である。小窓の無用力を足がかりとして、クラスメイトはウィルコさんの物語に干渉できるようになり、無事、ウィルコさんは傍観者であることをやめ、1年1組の物語の中に取り込まれるのである。

前の項で、無用力は無用であるからこそ、かけがいのないものなのではないか、と書いた。ウィルコさんの無用力は果たして無用であったに違いないが、同時に間違いなくかけがいのないものであったに違いない。最終話において、7年間の日常であると明かされた彼女の無用力は、本作の物語全体を肯定しているのである。

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