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『海獣の子供』を観て、私は《考えるをやめる》を知った。

「海獣の子供」を観た。

映画を観ながらも、観終わったあとも、「この映画は、観る人に一体何を伝えたいんだろう?」とぐるぐる考えていた。何度も反芻しながら、それでもしっかりした像が掴めず途方に暮れた。
次第に考えることが億劫になり、一度考えるのをやめよう、と思ったときに、この映画を「理解したい」「理解できる」と考えること自体が、映画で繰り返し表現されていた「全てを知ることができると勘違いしている人間の愚かさ」である、とふと気が付いた。
これこそがおそらく、この映画の主題である。

▼あらすじ

自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生の琉花は、長い夏休みの間、家にも学校にも居場所がなく、父親の働いている水族館へと足を運ぶ。そこで彼女は、ジュゴンに育てられたという不思議な少年・海と、その兄である空と出会う。やがて3人が出会ったことをきっかけに、地球上でさまざまな現象が起こりはじめる。


映画なのだから、大きなテーマがあって、誰もがそれをそっくりそのまま受け取ることができるというのは、ただの固定概念だ。
人がどれだけ言葉を尽くしても、どんな風に形にしても、伝えたいことをそのまま伝えることはできない。言葉には限りがある。
人間というのは自分たちのものさしで物事を判断するけれども、そのものさしはとてもちっぽけで、私たちが理解していると思っているものは、世界のほんの一部にしか過ぎないのだ。

宇宙を占めている物質の9割が暗黒物質(ダークマター)で、今人間が解析して理解している原子だとかの物質・エネルギーは、宇宙に存在するすべての物のほんの5%にしか過ぎない、という説が映画の中で言及されている。

https://gigazine.net/news/20150807-dark-matter-dark-energy/
(このサイトでわかりやすく解説されている。)

《知っていること》《知らないこと》《知らないということにも気付いていない未知のこと》が、私たちの想像を絶するような数、存在する。論理はよくわからないが、どうやらそういうことらしい。


海だとか山だとかの自然が私たちに伝えたいことを、完全に理解できるなんて言う人はいない。
しかし、海の音を感じ、風を浴び、空を仰いで息を吸うこと。そこから与えられるもの・得られるものは計り知れない。そして、自然はいともたやすく、私たちがどれだけ苦心しても伝えきることのできない繊細な気持ちを、そのまま届けてくれる。

この映画は、それらと同じように”感じるべき”であった。きれい、とか、よくわからなかったな、とか、そういう単純な感想を抱くだけでよかったのだ。
私たちはどうも、なんとか答えを見つけよう、難しく考えようとしてしまう。


「海獣の子供」では、そんな不器用で愚かな人間についてネガティブな面を出すだけではなく、だからこそ愛おしい存在であるとも表現している。

歩み寄ることの勇気と美しさ・そこから生まれる感情。
命を生み出すことのすばらしさ。
命をつないでいくことで発生する喜びと責任。
自分という存在が、たくさんの経験や記憶から成り立っていること。
なぜ生きるのか・どう生きていくのか、その答えは自分たちの中だけではなく、外にもヒントがあること。
すべての物事を理解できるなどと驕らず、受け入れること。
言葉には限りがあるからこそ、少しでも言葉を紡いで相手に渡すこと。

考えてもわからなかったことに気付くことができたのは、逆に「考えることをやめた」からであった。
最近は、「考える」について考えることが多かったので、考えないことでわ見えるものもあるのだと、知った。

答えが出ないときに、立ち止まってはふと思い出す、そんな映画だった。
夜の海に行きたいと思った。
そこで、自分が何を感じるのか、見てみたいと思った。

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