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研究計画書に何を書くべきか

研究計画、という行為自体が好きではない。ましてやそれを文章にすることはもっと好きではない。好きではないので苦手である。苦手であるから好きではないのかも知れないが。

それとは別のところで、学生たちが研究計画書を書くことには、危険が伴うと思っている。なぜなら、彼らの場合、その「完成した計画書」のとおりに研究を進めようとするからである。

以下、計画書の何がいけないか。仕方なく書くとしたら何を書くか? について考えてみる。

「研究」というのは、研究課題に対する「答え」が見えないからやるのである。「答え」が分かっているなら、そもそもそれは「研究」ではないし、やる意味もない。しかるに、研究計画書には「予想される結果」とかを書いてくる。そして、「研究」に慣れていない学生たちは、結果が「予想される結果」と違っていた場合、なんとかして「予想される結果」に寄せようとしたりする。

このことはすでに何度か書いていると思うが、竹内剛氏も著書の中でこのように書いている。

「……どこに(謎を解く)カギがあるかわかっていたら、それは謎ではない。そういう意味で、私は研究計画という言葉が嫌いである。計画できるものは既知の作業であって、謎解きではない。」(竹内剛『武器を持たないチョウの戦い方』京都大学出版会、pp.183-185, 丸括弧内はワタクシ注)

大学院の入試に計画書を提出する必要があるので、それを書かなければならないということにも問題があると思うのだが、仕方なくそれを書くとして、何を書けばよいか。ちょっと考えてみよう。

大学院に入学するときに、証明しなければならないことは、

1.当該の分野に興味があること
2.当該の分野の最低限の知識を有していること
3.当該の分野の現時点の問題点について、自分なりの見解を有していること

だと思う。

これだけの材料をもって、その問題の解決方法を学びたいといって戸を叩くのが良い。自分はこんなに知っています! という計画書がほとんどなのだけれど、これだけ知っていて、これだけできるなら、自分でできますよね? と言いたくなる。

いざ、「研究」のテーマを決めたら、そのときには明らかにするべき課題(リサーチクエスチョン)が設定されるだろうから、それを明らかにするためには何をすればいいか、方法論を検討することになる。けれどそれは、大学院に入学してからでいいのでは? と思う。

「コーパスを調査します」とか、「日本語母語話者の会話を集めます」とか、「それしてどうするの?」ということを書くくらいなら、「こんなことが未解決であんなことも分からない。知りたい知りたい。でも、どうやったらいいか分からない。だからもっと勉強したい」と書いてほしい。

ちなみに、科研費というお金を申請するときにも研究計画書が必要である。苦手。いま、この文章を書いていて、自分も同じように立派に書こうとしていたのかもしれないと思った。純粋に、こんなことがやりたい、あんなことが知りたいと書いてもいい気がする。そろそろ季節だな。考えてみよう。


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