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批判する/される練習はしておくべきだと思う

ある授業では、学生が日本語教師になって模擬授業をする。残りの受講生は学習者になったつもりで授業を受けて、あとでコメントをする。

もう随分前からだけれど、このコメントがほとんど褒め言葉になった。
今年は特にその傾向が顕著で、ちょいとこのことについては考えなければならないと思ったのでこの文章を書いている。

こちらの意図としては、コメントをする側の学生には、「こういうところをもっと修正するともっとよくなるよ」ということを言ってほしいと思っている。その意味で、授業での発表活動では、発表者よりも聞いている側の人間の方が重要だと思っている。

ところが、学生達はとにかく「すごかった、すばらしかった、よかった」と、良いところを見つけるのに長けていて、おそらく良くないところも見つかってはいるのだろうけど、それを発言することを憚る。

理由は何だろう? 思いつくままに挙げてみると、

1.「批判」すると人間関係が悪くなると思っている
2.「批判」するといやな人だと思われる
3.私も批判しなかったのだから、あなたも批判しないでね

てなところだろうか。1.2.は批判する側の、3.は批判される側の問題である。

そうそう。このクラスでは批判しようとしている学生もいて、その学生が毎回、「こういうことを言ってもいいでしょうか」と聞きに来るのが印象的である。つまり、それほどまでに今の学生たちは「批判」することを恐れるし、「批判」の仕方を知らない。

ずっと「」付きで「批判」と書いているが、これには理由があって、彼らや、おそらく世間で思われている「批判」というのは、少なくともアカデミックな文脈においては「批判」ではない。それは「非難」である。

この辺の定義はいろいろとあるのだろうけれど、僕自身は、非難とは根拠なく、相手の意見や主張を攻撃することで、相手にダメージを与えることだと思う。

一方、批判というのは、その人の意見や主張に対して、その人が見えていない、気づいていないことについて指摘する行為のことである。「~~~という点は、あなたの今日の発表に対して問題にはならないでしょうか」とか、「~~という人が…ということを言っていますが、この点についてどのようにお考えでしょうか」というような。

国会議員が国会でやっているのも、基本的には同じことであるはずだ。どの政党も、何かを良くしようと活動していると、願わくば、そうであるはずである。しかし、世の中こっちが立てばあっちが立たないみたいなことがあって、往々にして「あっち」の方に気づいていないとか、意図的に無視しているとか、そういう場合には反対側の政党が、その点について指摘して、どうするのかということを議論することになる。批判がなければ、なんでもかんでも提案した者勝ちになってしまう。最近は、批判される側の方に問題が多すぎて、いきおい口げんかみたいになってるけれど。

国会でなくても、組織で動くというときにはそういうことが必要で、そこにいる人全員がイエスマンであった場合には、早晩その組織は弱体化するのである。そういう色々な文脈を考えても、学生の間に批判的に考える訓練をしなければならない。

一方で、批判される側の練習も必要だと思う。あ、これは私を貶めようとして放たれたことばではないのだということを理解して、そのことばから何かを得るために、思考を巡らせる経験を繰り返すことをしていく必要が、ある。

さて、学生たちにどのようにして批判的な思考を育ててもらうか?

これはとても難しい。もしかしたら上にも書いたように、学生達は批判的に考えることができているのかもしれない。しかし、それを口にすることを恐れているのかもしれない。だとしたら、上の問題は、

どのようにして、自分の考えていることを、臆することなく発言できるように学生を育てるか? そして、それを受け止めることができるようになるか?

ということになる。

この答えは、いまのところさっぱり分からない。
また来週、学生の前で何かを話すことによって、「ちょっと批判してみようかな」ということを感じてもらうしかないようにも思う。そして、批判することによって変わることは、批判した当人にとっても、批判された当人にとっても百利あって、一害もないという経験を繰り返してもらうしかないのかもしれないとも思う。

いずれにしても、良いところを見つけるというのは素晴らしい能力で、これは学校教育の考え方の効果であるのだと思う。そこを失うことなく、もう一段、アドバイスができるようになると、もっとよいと思う。

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