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第138講 第二世界大戦の終結


138-1 枢軸国の劣勢とイタリアの降伏


枢軸国連合国

 日中戦争・太平洋戦争を含めた広い意味での第二次世界大戦において、列強は二大陣営に収れんされた。日・独・伊を中心とする1)枢軸国と、米・英・ソ連・中華民国を中心とする2)連合国である。

  • 枢軸国 Axis Powersは、日・独・伊のほか、スロヴァキア(ドイツの保護国)・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニア・フィンランド・タイの9カ国。

  • 連合国 Unided Nations, Allied powersは、米・英・ソ連・中華民国を中心に最終的に51カ国。1942年1月英米ソ中など26か国が大西洋憲章を発展させた(3)連合国共同宣言を発表した。戦後、連合国がそのまま(4)国際連合United Nationsに移行した。

*国連憲章に日独対の旧敵国条項が残るのはそのため。*「国際連合」と「連合国」は同じ単語。英語ではUnited Nations、中国語は「聯合国」。

 スイス・スウェーデン・5エール(アイルランド)・スペイン・ポルトガルなど中立を保った国もあった。

 1937年新憲法を制定し5)エールと改称、ブリテンから自立したアイルランドは、6)デ=ヴァレラ首相のもとブリテンからの批判に屈せず中立をつらぬいた。

 スペインの独裁者7)フランコは、1975年まで独裁政権を維持した。

 ポルトガルの独裁者8)サラザールと彼の後継者たちは、1974年まで独裁政権を維持した。

*スペインとポルトガルが第二次世界大戦後30年ほど政権を維持していた事実は、連合国、とりわけ合衆国の戦争目的が、「独裁の打倒」というよりも、自らの覇権を邪魔する「日独」の打倒にあったことを如実に物語っている。合衆国にとって無害なり有益であれば、独裁政権でも存続し、ポルトガルに至ってはNATOに加盟までしている。

枢軸国の劣勢

 1942年夏までは枢軸国側が優勢を保ったが、総力戦に転ずるなか、戦局の転換がはじまった。

 1942年6月、日本軍は9)ミッドウェー海戦で致命的な打撃を受け、翌43年2月にはソロモン諸島の10)ガダルカナル島で米軍にやぶれた。

*ミッドウェーでは、主力空母である赤城・加賀・蒼龍・飛竜を失った。

*ガダルカナル島は、合衆国とオーストラリアを結ぶ連絡線上に位置しており、日本は飛行場を建設し両国の連携阻止とオーストラリア牽制を狙ったが、合衆国もその重要性を認識し飛行場を占領して対抗した。飛行場の奪還を目座した日本側が、このような南の孤島で多くの兵士を無惨に死なせたことは、あまりに愚かという他ない。

*地図を見れば素人でもわかるが、ミッドウェーとガダルカナルは、インドネシアの石油資源の確保とその輸送ルートの確保という戦略目的からすれば、手を出す必要の全くない孤島である。太平洋戦争は、日本側としては、亀のようにこもって守り、やってくる連合国軍をひたすら待ち伏せして叩けば良い戦争なのに、取らなくても良い孤島を取りに行って主力の空母や兵士を損なったのは、馬鹿げているという他ない。

 スターリングラード(現ヴォルゴグラード)に突入したドイツ軍は、ソ連軍に包囲されて43年2月敗北した。この11)スターリングラードの戦い以降、ドイツは劣勢に転じた。

 42年11月、12)北アフリカ上陸に成功した連合軍は43年ドイツ・イタリア軍を撃破した。

 短期決戦に失敗したドイツは、占領地から物資の徴発や強制労働への動員を行い、13)アウシュヴィッツ強制収容所などでユダヤ人の絶滅(14)ホロコースト)をはかった。ナチスの支配に対して各国の民衆は、15)レジスタンス16)パルチザンとよばれる抵抗運動を展開した。

 1943年1月、米大統領F.ローズヴェルトと英首相チャーチルはモロッコで17)カサブランカ会談を行い、シチリア島上陸作戦を決定、敵国の無条件降伏の原則を表明した。*映画「カサブランカ」の舞台


イタリアの降伏

 イタリアは1943年無条件降伏した。

 1943年7月連合軍が18)シチリア島上陸に成功すると、ファシズム大評議会はムッソリーニの不信任を可決し、国王は新たに19)バドリオ政府を樹立させた。

  バドリオはファシズム大評議会と20)ファシスト党を解散し9月に連合軍に無条件降伏した。

 ドイツ軍が北イタリアを占領しムッソリーニ傀儡政権を樹立したが、国王とバドリオ新政権はイタリア南部に逃れてドイツに宣戦し、内戦は1945年まで続いた。



138-2 ドイツの降伏

連合国の対日・独作戦

 43年9月イタリアを降伏させた連合国は、米・英・ソ連・中華民国の四大国で足並みをそろえ(フランスを加えて国連安保理五大国となる)るとともに、ドイツと日本に対する攻勢に転じた。

 1)スターリングラードの戦いに突入したドイツ軍が、ソ連軍に包囲されて43年2月敗北した以降、ドイツは劣勢となり、ソ連が反撃に転じた。

 43年11月米大統領F.ローズヴェルトと英首相チャーチルは中華民国重慶政府の2)蔣介石を交えて3)カイロ会談を行い、対日処理方針を決めた4)カイロ宣言を発表した。次の内容を含む。

 第一次世界大戦後に獲得した太平洋上の諸島をはく奪すること。

 中国東北地方(満州)・台湾・澎湖諸島を中華民国に返還する。

 5)朝鮮の独立。*朝鮮王朝→大韓帝国領を指し、南北一体が明示されずとも当然とされていた。

*カイロ宣言の内容は、台湾・澎湖諸島は下関条約の否定、太平洋上の諸島をはく奪はヴェルサイユ条約の否定、朝鮮の独立は日露戦争その他の成果を全て否定するものであったから、当時の日本政府が自主的にのめる条件ではなかった。

 ついで43年11月米大統領F.ローズヴェルトと英首相チャーチルはソ連の6)スターリンを交えて7)テヘラン会談を行い、ドイツに対する共同作戦を協議し、米英は1944年5月までに北フランスに上陸し第二戦線を形成する事を約し、ソ連の対日参戦(時期は未定)でも合意した。

*ここまで、1941年①大西洋会談、1943年②カサブランカ会談→③カイロ会談→④テヘラン会談、1945年⑤ヤルタ会談と、ローズヴェルトとチャーチルは全てに参加している。それぞれの会談の出席者は入試問題で問われるので注意。ちなみに、頻繁に二人が会うのは、合衆国と英国、というより合衆国民主党政権と英国保守党政権の外交姿勢が大きく異なり、互いを信用できず牽制したいからである。仲が良いからではない(笑)。

 1944年6月、連合軍は米軍人8)アイゼンハワーの指揮で9)ノルマンディー上陸作戦を実行し、8月に10)パリを解放した。8月末自由フランス政府の11)ド=ゴールが凱旋し、9月臨時政府が組織された。戦後1946年12)第四共和政が成立した。

 太平洋では米軍が1944年7月13)サイパン島を攻略、10月フィリピンの14)レイテ島を攻略した。サイパン島陥落後、15)日本本土空襲が本格化した。

*サイパンを取られ、フィリピンを奪還された時点で、日本の戦争目的は失敗、戦略は破綻し、敗戦は確定している。ここで止めずにさらに半年間戦争を続け、叶いもしない戦略目標や机上の国益のために、兵士と国民を犠牲にしたのは、愚かという他ない。

ヨーロッパの戦争終結


 1945年春、連合国はまずドイツを降伏させ、ヨーロッパ戦線を終結させた。

 1945年2月、大統領F.ローズヴェルトと英首相チャーチル、ソ連のスターリンは16)ヤルタ会談を行い、ドイツや東欧の戦後処理を定めた17)ヤルタ協定を結んだ。

 ソ連がドイツから解放しつつあった東ヨーロッパをめぐる扱いで米英とソ連が対立したことから、18)冷たい戦争の萌芽とされる。*冷戦は1945年ヤルタ協定からはじまり1989年マルタ会談で終結宣言が出されたことから「ヤルタからマルタへ」と称された。

 秘密協定で、ドイツ降伏後3か月以内の対日参戦と、その条件として南樺太の返還と千島列島の引き渡しが決められた。*日ソ中立条約の期限は46年まで残っていた。*北方領土問題。

 1945年2月、英米軍がザクセンの古都ドレスデンを夜間無差別爆撃で壊滅させた(19)ドレスデン大空襲)。

 米英軍は西から、ソ連軍は東からドイツに迫り、5月ソ連は首都ベルリンを制圧した。これに先立ち45年4月末ヒトラーは自殺し、(20)ベルリン陥落)のあと5月ドイツは無条件降伏した。

 東部戦線からドイツに反撃する過程で、ソ連軍はドイツに占領されたポーランドを解放し、枢軸国に組したルーマニア・ハンガリー・ブルガリアを制圧し、ドイツ東部を占領した。これらの地域には共産党あるいは共産党系の政党による一党独裁体制が打ち立てられ、ソ連の衛星国として冷戦下の東側陣営を構成した。

138-3 日本の降伏

1ミッドウェー海戦2ガダルカナル島3大東亜会議4汪兆銘5チャンドラ=ボース

大東亜会議

 1943年日本は東京で大東亜会議を開催し戦争の正当性を内外に示そうとした。

 1942年6月、日本軍は1)ミッドウェー海戦で致命的な打撃を受け、翌43年2月にはソロモン諸島の2)ガダルカナル島で米軍にやぶれ、以後劣勢に転じた。

 日本は1943年11月、東京で3)大東亜会議を開き、戦争の正当性を訴えた。会議は東条英機首相が主催し、満州国、中華民国南京政府(代表4)汪兆銘)、タイ、ビルマ、フィリピン、インド政府(代表5)チャンドラ=ボース)らが出席した、いずれも親日政府や傀儡政府にすぎなかった。

  • 6サイパン島7レイテ島8日本本土空襲9フィリピン奪回10東京大空襲11硫黄島12沖縄本島に上陸

日本の劣勢

 1944年から45年に入ると日本はいちだんと劣勢に追い込まれた。

 米軍が1944年7月、6)サイパン島を攻略、10月フィリピンの7)レイテ島を攻略した。サイパン島陥落後、8)日本本土空襲が本格化した。

 1945年2月、米軍は9)フィリピン奪回に成功した。*4月、戦艦大和の最後。

 1945年3月10日、米軍はB29爆撃機300機で東京に夜間無差別爆撃を加えた。この10)東京大空襲では約10万人の死者が出た。

 米軍は1945年3月11)硫黄島を攻略、4月、12)沖縄本島に上陸して6月沖縄を占領した。


ポツダム会談とポツダム宣言


 連合国首脳の米大統領トルーマン・チャーチル(途中で労働党のアトリーと交代)・スターリンは7月、ベルリン郊外で13)ポツダム会談を行い、ヨーロッパの戦後処理について協定した。

 1945年4月、F.ローズヴェルトが病死し、副大統領14)トルーマンが大統領となった(任1945-53)。

 ブリテンではドイツ降伏後1945年7月に総選挙が行われ、保守党が敗北し労働党が勝利した。チャーチルは下野し、労働党党首15)アトリーが新内閣(任1945-51)を組織した。

*アトリーは、内政では「ゆりかごから墓場まで」という言葉で表される福祉国家の実現や重要産業の国有化を行った。戦後、マーシャル=プランの受け入れやNATO加盟を実現した。また、インド・パキスタンの分離独立やパレスチナ委任統治権放棄など今日に禍根を残す決定をおこなった。

 米大統領トルーマン・英首相チャーチル・中華民国総統蔣介石の名で16)ポツダム宣言を出して日本に無条件降伏を求め、戦後の日本管理方針を明らかにしたが、日本は黙殺した。

*ここまで、1941年①大西洋会談、1943年②カサブランカ会談→③カイロ会談→④テヘラン会談、1945年⑤ヤルタ会談と、ローズヴェルトとチャーチルは全てに参加したが、⑥ポツダム会談では、ローズヴェルトは病死しており、副大統領から昇格したトルーマンの参加となった。チャーチルは、①〜⑥まで皆勤賞のはずだったが、本国の選挙で保守党が敗れて、無念ながらアトリーに途中交代した。それぞれの会談の出席者は入試問題で問われるので注意。

*ポツダム宣言が、米大統領トルーマン・英首相チャーチル・中華民国総統蔣介石の名で発表されたことは頻出。会談にはスターリンが参加したが、日ソ中立条約が有効であったことから、ポツダム宣言には参加しなかった。蔣介石は会談には参加していなかったが、電話で承諾し、宣言に参加している。英首相チャーチルはすでにアトリーと交代し帰国していたが、ポツダム宣言はチャーチルの名で出された。ローズヴェルトとチャーチルという老獪な外交巧者二名が去り、素人同然のトルーマンとアトリーが相手とあっては、同じく外交巧者のスターリンとしては、笑いが止まらなかっただろう。

日本の降伏

 1945年夏、合衆国は人類史上初の核攻撃を行い、日本を降伏させた。

 8月、トルーマン大統領が広島と長崎に人類史上初の核攻撃(原子爆弾投下)を行うと、日ソ中立条約を無視して17)ソ連が対日宣戦し、ポツダム宣言に参加した。ソ連軍は満州国を制圧、さらに18)朝鮮・樺太に侵入し、中国東北地方にいた日本人などをシベリアに抑留し、強制労働を課した。

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、第二次世界大戦は連合国の勝利に終わった。




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