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第153講 アジアの自由化・民主化

153-1 東アジア諸国の発展と民主化


Keyword 
1:朴正煕死去 
2:金大中 
3:光州事件 
4:全斗煥 
5:盧泰愚(ノテウ) 
6:韓ソ国交樹立 
7:韓国北朝鮮国連同時加盟 
8:中韓国交樹立 
9:金泳三 
10:金大中 
11:太陽政策 
12:南北首脳会談 
13:蔣経国 
14:民主進歩党(民進党) 
15:李登輝 
16:陳水扁

韓国の民主化

 朴正煕の開発独裁のもとで低賃金と外資導入を結びつけた工業化をすすめ、NIES(新興工業経済地域)の一つとして経済成長をとげた韓国では、1979年の1:朴正煕大統領暗殺後、1980年の3:光州事件で民主化運動を弾圧した軍人4:全斗煥が大統領となり開発独裁を続けたが、1987年民主化宣言が出されて大統領選挙が実施され、1988年軍出身の5:盧泰愚が初の民選大統領となり、民主化が実現した。

 1979年1:朴正煕の後、政治的自由を求める民主化運動が全土に広がった。背景に合衆国カーター政権の「人権外交」がある。

 1980年、民主化運動の指導者2:金大中を政府が拘束すると、韓国南部の光州で学生や労働者による民主化要求運動が高揚したが、4:全斗煥率いる軍が武力弾圧した。これを3:光州事件という。

 光州事件を弾圧した軍人4:全斗煥(任1980~88)が大統領となって開発独裁を続けた。

 1987年に政府は民主化宣言を行い、初の大統領選挙が実施され、軍人5:盧泰愚(任1988~1993)が当選し、初の民選大統領となった。1988年にはソウルオリンピックが開催された。

 1989年ハンガリー・ポーランドと国交を樹立し、1990年ゴルバチョフとの間で6:韓ソ国交樹立を実現した。

 北朝鮮とも融和政策をとり1991年7:韓国北朝鮮国連同時加盟が実現した。
1992年8:中韓国交樹立を実現したが、台湾は韓国と断交した。

 1993年には、9:金泳三(任1993~1998)が、32年ぶり、民主化後初の文民大統領となった。

 1998年には、10:金大中(任1998~2003)が大統領となり、北朝鮮の金正日に対話を呼びかける11:太陽政策を取り、2000年平壌で12:南北首脳会談が実現した。*2000年シドニーオリンピック開会式で両国選手団は南北統一旗を掲げて入場した。

*1980年以降の大韓民国(韓国)の大統領一覧

  1. 全斗煥 (Jeon Doo-hwan): 1980年から1988年まで大統領を務めました。彼の政権は、1980年の軍事クーデターによって樹立されましたが、民主化運動に対する厳しい弾圧で知られています。

  2. 盧泰愚 (Roh Tae-woo): 1988年から1993年まで大統領を務め、韓国の民主化と経済発展に寄与しました。彼の在任中に1988年ソウルオリンピックが開催されました。

  3. 金泳三 (Kim Young-sam): 1993年から1998年まで大統領を務め、韓国の初の文民大統領として知られています。彼の政権は、経済改革と民主化を進めました。

  4. 金大中 (Kim Dae-jung): 1998年から2003年まで大統領を務め、韓国の民主化運動のリーダーの一人でした。彼は、北朝鮮との関係改善に努め、2000年にはノーベル平和賞を受賞しました。

  5. 盧武鉉 (Roh Moo-hyun): 2003年から2008年まで大統領を務め、透明性の高い政治と経済改革を推進しました。また、彼は北朝鮮との関係改善にも取り組みました。退任後に汚職を疑われ自殺しました。

  6. 李明博 (Lee Myung-bak): 2008年から2013年まで大統領を務め、経済成長とグローバル化を重視する政策を展開しました。*竹島に上陸して物議を醸しました。

  7. 朴槿恵 (Park Geun-hye): 2013年から2017年まで大統領を務めましたが、汚職スキャンダルにより弾劾され、任期途中で職を失いました。朴槿恵は、韓国の初の女性大統領でした。

  8. 文在寅 (Moon Jae-in): 2017年から2022年まで大統領を務め、韓国の平和と繁栄、北朝鮮との対話を進める政策を採りました。

  9. 尹錫悦 (Yoon Suk-yeol): 2022年から現在まで大統領を務めています(2023年4月時点)。彼の政権は、経済成長と安全保障に重点を置いています。


中華民国(台湾)の民主化


 韓国と同様にNIES(新興工業経済地域)の一つとして経済発展がつづき、1975年蔣介石総統が死去したが、息子の13:蔣経国が国民党党主席(任1975~88)、中華民国総統(1978~88)を継いだ。

 政治的には1949年以来、国民党の一党独裁下にあった。しかし、86年民主化運動やアメリカ合衆国からの圧力を背景に、14:民主進歩党(民進党)が結成され、87年には戒厳令が解除された。

 88年には蔣介石の後任であった子の13:蔣経国総統が死去し,本省人で副総統の15:李登輝(任1988~2000)が総統に就任して,民主化をすすめた。
2000年には民進党の16:陳水扁(任2000~2008)が総統に就任し、2002年に世界貿易機関(WTO)加盟を実現したが、台湾の独立を志向し中華人民共和国と対立を深めた。


 1949年以降の台湾(中華民国)の総統一覧は以下の通りです。

  1. 蔣介石(Chiang Kai-shek): 1949年から1975年まで総統を務めました。中国大陸の国共内戦で敗れた後、台湾に逃れて政権を築きました。

  2. 蔣経国(Chiang Ching-kuo): 1978年から1988年まで総統を務め、蔣中正の息子です。経済の近代化と政治の自由化を推進しました。

  3. 李登輝(Lee Teng-hui): 1988年から2000年まで総統を務め、台湾の完全な民主化を推し進めました。彼の時代に初の直接総統選挙が行われました。

  4. 陳水扁(Chen Shui-bian): 2000年から2008年まで総統を務め、民主進歩党(DPP)から選出された初の総統です。台湾の主権と独立志向を強めました。

  5. 馬英九(Ma Ying-jeou): 2008年から2016年まで総統を務め、中国との経済関係を強化しました。

  6. 蔡英文(Tsai Ing-wen): 2016年から現在まで総統を務めています(2023年4月時点)。民主進歩党。彼女は台湾の自主性と民主主義を重視しています。

 蔣中正と蔣経国の時代には、国民党一党支配が続きましたが、李登輝の時代に多党制への移行が始まり、陳水扁の時代には台湾の独立志向が強まりました。馬英九の時代には、中国との関係改善が図られ、蔡英文の時代には再び台湾の自主性が強調されています。

153-2 東南アジアの民主化・自由化


フィリピンの民主化

 
 フィリピンでは1986年、1:マルコス独裁政権が崩壊し、民主政権が誕生した。

 1983年、反マルコス運動を指導するため亡命先の合衆国から帰国した元上院議員で民主化運動の指導者ベニグノ=アキノが凶弾に倒れた(2:ベニグノ=アキノ暗殺)。

 ベニグノの妻3:コラソン=アキノが反マルコス勢力の支持で大統領選に立候補し、1986年大統領となって(任1986~92)民主化が実現した。

*2022年の大統領選挙でマルコスの息子であるマルコス・ジュニアが当選し大統領に就任した。 


ヴェトナムの経済自由化


 1976年に成立したヴェトナム社会主義共和国は、一党独裁を維持しながら経済の自由化をすすめ、1995年ASEANに加盟した。

 隣国カンボジアの極左独裁政権4:民主カンプチア(ポル=ポト政権)倒すためヘン=サムリン派を支援して1978年カンボジアに侵攻したが、ポル=ポト政権の後ろ盾であった中華人民共和国と1979年5:中越戦争がおこり、国際的に孤立し、経済が疲弊して多くの難民を出した。

 1986年中華人民共和国の改革・開放にならって開放経済政策6:ドイモイ(刷新)を実施して政策を転換し、外国投資を受けて経済成長をすすめた。

 1989年にカンボジアから撤退(7:ヴェトナム軍のカンボジア撤退)した。

カンボジアの内戦と民主化


 カンボジアでは1980年代に激しい内戦がおこったが、内戦の停戦後、93年の総選挙で憲法制定会議が成立して新憲法が採択され,シハヌークを国王とするカンボジア王国が樹立された。

 ヴェトナムの侵攻で民主カンプチアが倒れ8:ポル=ポト政権が崩壊すると、1979年ヴェトナムの支援を受けた9:ヘン=サムリン10:カンボジア人民共和国を建てたが、中華人民共和国を後ろ盾とするポル=ポト派・合衆国を後ろ盾とするノン=ノルの後継者ソン=サン派・民族主義に立ち幅広い支持を受けたシハヌーク派の三派連合が反政府の立場をとり、内戦が勃発、最後は無政府状態となった。

 1989年11:ヴェトナム軍のカンボジア撤退のあとヘン=サムリン政権は倒れ、1991年パリで12:カンボジア和平協定が結ばれ、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による行政管理、総選挙の実施などがきめられた。

 1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の要請により、日本の自衛隊は13:カンボジアへのPKO派遣を行った。

 1993年、シハヌークを国王、息子のラナリットを第一首相とする立憲君主政の14:カンボジア王国が成立した。

 1998年、カンボジア総選挙で第一党となった人民党の15:フン=セン政権が、1999年ASEANに加盟した。

*2023年、カンボジアのノロドム・シハモニ国王は7日、フン=セン首相の長男、フン・マネット氏を次期首相に指名した。


インドネシア・ミャンマーの民主化とマレーシアの経済発展

 独裁が長く続いたインドネシアとミャンマーで、民主化が実現した一方、マレーシアは経済成長を続けた。

 インドネシアでは、1997年の16:アジア通貨危機以降、経済の立て直しや民主化を求める学生や民衆の運動が激しくなり、1998年17:スハルト退陣ののち民主化が実現した。

 ミャンマーでは、1988年軍事政権に対する民主化運動の指導者となった18:アウンサンスーチーが1989年以降自宅軟禁下に置かれたが、2011年に解放され、民主化が実現したが、2021年、軍のクーデターで政権が崩壊し、アウンサンスーチーは軍に拘束された。*1991年ノーベル平和賞受賞。

 マレーシアでは、第4代首相となった19:マハティール(任1981~2003)が、マレー人中心政策ブミプトラ政策(「土地の子」の意)や、日本の経済成長に学ぶルック=イースト政策を行い経済成長を実現した。

153-3 南アジアの対立と発展

インド

 インドは、1964年のネルーの死後、ネルーの娘で国民会議派の1:インディラ=ガンディー首相の長期政権がつづき、1971年2:第三次インド=パキスタン戦争3:バングラデシュ独立を実現し、1974年4:インドの核実験を行った。

 社会主義型の国家建設をすすめ、農業生産は上昇したが,84年にインディラ=ガンディーが暗殺されるなど、政局は安定しなかった。

 インディラの長男5:ラジブ=ガンディー(任1984~90)が首相となり、経済開放政策をすすめたが、スリランカの民族問題に介入し、タミル人に暗殺された。

 20世紀後半の「宗教の復権」の潮流のなかでヒンドゥー復興運動が強まり、90年代になると6:インド人民党が台頭し、パキスタンとの対立を深め、1998年二度目の核実験を実施し正式に核保有を宣言した。インドはIT産業を中心にめざましい発展をとげ、BRICSの一角を占めるようになった。

BRICS(①ブラジル)(②ロシア)(③インド)(④中国)(⑤南アフリカ)

パキスタン

 パキスタンが東パキスタンにウルドゥー語を強制したことに対し、ベンガル語を母語とする東パキスタンが反発し、1971年第三次インド=パキスタン戦争をへて、7:バングラデシュが独立した。

 パキスタンは80年代、ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、合衆国からの支援を受けてアフガニスタン国内のイスラーム勢力を支援したが、このとき供与された武器が、ターリバーンの軍事力の基盤となった。

 1988年にはブットがイスラーム圏で最初の女性首相となった。

 1998年にはインドの二度目の核実験に対抗して8:パキスタンの核実験を行った。

印パ戦争 

第一次インド=パキスタン戦争…(1947)年 カシミール問題
第二次インド=パキスタン戦争…(1965)年 カシミール問題
第三次インド=パキスタン戦争…(1971)年 バングラデシュ独立   

核保有年 
①米(1945)
②ソ(1949)
③英(1952)
④仏(1960)
⑤中(1964)
⑥印(1974)
⑦パ(1998)

スリランカ

 スリランカでは、多数派の10:シンハラ人優遇に、11:タミル人が反発して9:スリランカ内戦がおこった。1983年に激化した内戦は長期化したが、2009年政府はタミル勢力の主な拠点を制圧したと発表した。

10:シンハラ人は仏教徒でスリランカの多数勢力。

11:タミル人はヒンドゥー教徒でスリランカの少数勢力。独立をめざし内戦をおこした。

 1985年以降内戦のさなかコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへの遷都が漸進的に実施された。



世界史の人物像 アウンサンスーチー



 アウンサンスーチーはミャンマー(旧ビルマ)の民主化を象徴する政治家です。彼女の生涯は、平和的な抗議活動から国家の指導者へという顕著な変遷を経験し、ミャンマーの複雑な政治的歴史の中で重要な役割を果たしています。

 1945年にビルマで生まれたスーチーは、国の独立を導いたアウンサン将軍の娘です。彼女の父は1947年に暗殺され、その後、スーチーは海外で教育を受け、イギリス人学者と結婚しました。しかし、1988年にミャンマーに戻ると、彼女の人生は劇的に変わりました。当時、国は軍事政権の圧政下にあり、スーチーは民主化運動の先頭に立ちました。

 彼女は非暴力の原則に従い、国民の自由と民主主義を求める声を高めました。しかし、これが軍政府の反発を招き、1989年には軟禁されました。その後、彼女は1991年にノーベル平和賞を受賞し、国際的な注目を集めました。スーチーの闘争は、ミャンマー国内外で広く支持され、彼女は民主主義の象徴となりました。

 2010年に軟禁が解除された後、スーチーは政治的に活動を再開しました。2012年の補欠選挙で国会議員に選出され、2015年の総選挙で彼女の党、国民民主連盟(NLD)は圧勝しました。しかし、憲法上の規定により大統領に就任できなかったスーチーは、実質的な国家指導者として国家顧問に就任しました。

 しかし、スーチーの指導は国際的な論争の対象となりました。特に、彼女がロヒンギャ危機にどう対応したかについては、国際社会からの批判が集まりました。この問題は、スーチーの評判に影を落とし、彼女が代表する民主化運動の複雑さを浮き彫りにしました。

 2021年の軍事クーデターにより、スーチーは再び拘束され、軟禁状態に置かれました。これはミャンマーの民主化の道のりにおける大きな後退であり、国際社会からの強い反発を招きました。

 アウンサンスーチーの人生は、国の民主化への道のりがいかに困難で複雑であるかを示しています。彼女の経歴は、民主主義の追求、国際的な政治的圧力、そして国内の民族的緊張が交錯するミャンマーの近現代史の一部として、重要な位置を占めています。

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