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0706


映画『夜は短し恋せよ乙女』をDVDで。原作を読んだのはもう何年も前なので、内容をほとんど忘れていたけれど、見ていると思い出してくるのがおもしろい。忘れたと思っているだけで、きっかけがありさえすれば、記憶がそこに、自分の中にちゃんとあるのだと実感できて、なぜか安心する。

『ヒストリアン』を少し読む。たくさんのテキストが出てくる話が好きだ。古い文書、古い手紙、ずっと昔の回想。重層的で立体的な、それでいて深く井戸を掘っていくような感覚。すばらしい。

飲まないけれど飲み会に参加。小学四年生の女子が、読んだことのある原作が映画になったものを見て、本のほうがいいと言っていた。映画は会話になっているところしか話さないでしょ、本にはその他の説明があるじゃん、だから本のほうがいい、と。それから、彼女は英語の本も読めて、でも英語だと書かれていることをいちいちどういうことか判断して、それから場面を想像するからめんどくさい、とも言っていた。日本語なら読んだと同時にイメージできるもんね。わたしが言うと彼女はそうそうと頷いた。

文字で書かれた物語を読んで、自分なりに想像するという自由を、わたしたちは誰でも持っている。読むことで立ち上がるイメージは、読んでいる自分だけのもので、わたしはその想像するという行為を、その想像されたものを、とても尊いものだと心から思っている。わたしの中の神聖な部分。聖域。いま初めてそう言葉にしたけれど。

その飲み会にはお題があった。子どもの頃好きだった絵本。
絵本とはいえないかもしれないけれど、『ライラック通りのぼうし屋』について話した。とても好きな場面があって、カラーの挿絵なのだけれど、大人になって読み返したときにわたしは拍子抜けした。挿絵そのものよりも記憶の中の絵のほうが断然すてきだったから。書かれた文章から幼いわたしがイメージした風景は、挿絵の情景を踏まえたうえで、さらに広がり自分の思い描く最高の形になって、わたしの聖域の特等席にずっと鎮座していたのだった。


ここまで書いてきて、先月末に自分の描いた絵の言わんとすることが掴めた気がした。あの実の中につまっているのは、わたしがこれまで想像し、立ち上げて、ずっと守り続けてきた、自分だけのイメージ。物語を読むことで獲得し、積みあげてきた自分だけの神聖な世界。わたしにとってそれは何よりも大事なもので、冒されてはならないものなのだ。

件の小学四年のわたしのちいさな友人は、いま『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読んでいる。わたしにはうまくなじめなかった物語だけれど、彼女は彼女の想像した世界でおおいに楽しんでいるのだろう。彼女にも大事な聖域がある。わたしにも、そして誰にでも。誰にでも好きなように想像し、つくりあげることが許されている、本を読むということは、そういうやさしい世界につながるということだ。

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