せまもりのうた

 その朝あなたが生まれたとき、私は仕事をしていた。夜中にあなたのお母さんを、あなたのばあちゃんと一緒に病院に送って、しばらく待ったけれど結局帰ってきたの。ほとんど眠らないまま早番の勤務に向かって、いつもと同じように目まぐるしく働いた。眠たかったけれど、お釣りを間違えたりはしなかった。もう生まれただろうか、まだだろうか。男の子かな、女の子かな。胸の中がにぎやかに湧き立って、そわそわと落ち着かないのに、妙に頭は冴えていて、目の前のお客さんとのやりとりが、時折スローモーションに見えたりした。お客さん、そんなにのんびりしていたら列車に遅れますよ。心の内でそう言うけれど、小銭を受け取る自分の手もゆっくりとしか動かなかった。でも、清掃の大川さんに「今日は一段と調子いいんでないの」と声をかけられたから、はたから見たら普段通りに働けていたみたい。勤務が終わると、早足でびゅうっと風をきるようにして家に急いだ。玄関を開けると同時に「生まれた?」と大声で訊いたら、あなたのばあちゃんが茶の間から答えてくれた。「生まれた、生まれた、女の子だ。朝だ。信男は仕事の帰りに寄って来るって」

 「んでは、背縫いすっぺ」
 あなたのばあちゃんはそれを楽しみにしていた。産着の背中に刺繡をするのを。生まれたらすぐにとりかかれるように、青や濃い緑、赤やピンクや、それから黄色や明るい水色や、いろんな色の刺繍糸を用意していたんだよ。裁縫箱と、山と積まれた産着を持ってきて、あなたのばあちゃんは、本当にうれしそうに顔を輝かせた。
 「まずは赤の破魔矢だべな」
 器用に針に糸を通して、針の先を髪の生え際にあててそっと滑らす。そうすると髪の油で、針の通りがよくなるの。そして、あなたが生まれることがわかってから少しずつ縫い上げてきた産着の背中、襟首のすぐ下に針を通した。あなたのばあちゃんは、ハイカラな刺繍のなんとかステッチとかいう難しい縫い方はしない。その代わり、細やかな並縫いを始める。背骨にそうようにまっすぐ下に、赤くて細かい点線がおりてゆく。ある程度の長さになったら、玉どめ。そうして、針の先はもう一度、始まりの点へと通される。そこから今度は、斜め方向へ。最初の点線よりも短く終えて、また玉どめ。もう一度始まりの点へと戻って、もう片側へと斜め線を縫っていく。あっという間に、上を向いた矢印が出来上がった。
 「破魔矢で邪を射る、だべ」
 ばあちゃんは、満足そうに顔をほころばす。「あんたも好きなの縫いなさい」と言われて、私は少し考えた。
 「太陽、縫えっかな?丸は難しいべか?」
 「下書きしたらいいっちゃ。ほれ」
 渡されたちびた鉛筆で、真っ白でやわらかな産着の背中に、私はぐるっと丸を書いた。跡が残らないようにうすく。そして、さんさんと陽が照っているのを表すために、丸の外側に間隔をあけて、短い線を放射状に書き込んだ。
 「これでいいべか?」
 「うん、上等だ。お日さまが守ってくれるってか」
 「それもあっけど、なんだか今日はうれしくて、胸っつうか、おなかっつうか、あったかかったんだ。体ん中さ、太陽あるみてぇにぽかぽかだった。そういうの、縫っとけば忘れねぇべなと思って」
 「んだか。忘れねべな、きっと。縫わねくとも、忘れねぇべな。縫ったら、もっと忘れねぇべな」

 明るい黄色の糸を手に取って、ふと、水色の糸も足そうと思った。水色の糸を、かせから一本抜く。黄色の糸も二本抜く。その三本を合わせて、刺繍針の穴へと通す。ばあちゃんほど細かくは縫えないから、点線は粗く、カーブを描くはずがカクカクとした角のある線になってしまう。
 「ギザギザでもいいよ。縫い目がつけばいいんだ」
 言われて少しほっとした。そう、背守りは縫い目がつけばいいの。大人の着物は左右の布を縫い合わせて背縫いするけれど、産着は小さくて背中部分が一枚ですむから背縫いがない。縫い目という“目”がないから、悪いものが入ってきやすくなる。“目”をつくって、子どもを守るのが背守りなのだと、あなたのばあちゃんは教えてくれた。初めての内孫だし、うんと守ってやっぺな。ばあちゃんは、産着を縫いながらそう言った。生まれたら、二人で背縫いしてやっぺな、って。

 出来上がった太陽は、とても不格好だった。丸なんだか、四角なんだか、六角なんだかわからないような形に、ちょぼちょぼと毛が生えているみたいな、なんとも変で妙な代物。「ぷふっ」と、あなたのおばあちゃんは吹き出した。「なんだかよくわかんねものがあるっつって、鬼も逃げそだな」なんて言って。でも、私は気にしなかった。くねくねした点線は、今日一日どきどきしていた自分そのものみたいで愛おしく思えたし、黄色の糸の中にところどころ水色が見えているのも、思った以上に気に入った。空が見え隠れしているみたいで。私は「よしっ」と声に出して、産着を両手で持ち、目の前に掲げてみた。小さい小さい背中。その小さな背中の、さらに小さいいびつな丸の向こうに、まだ見ぬあなたを思い描いた。ねえ、あなたはいま、起きているかな、寝ているかな。泣いているだろうか、何を見ているだろうか。お父さんにはもう会えた?あなたのお家で、あなたのばあちゃんとおばちゃんは、あなたが来るのを待ってるよ。あ、おばちゃんじゃなく、ふうちゃんです。あなたと一緒に暮らすふうちゃんだよ。ふうちゃんもお母さんもお父さんもばあちゃんもみんな、あなたと一緒にいるからね。あなたに見えないあなたの背中を、いつも見て守っていくからね。



 いま、私に負ぶわれてすやすやと眠るあなたの体温は、私の背中を温める。あなたをおんぶするたびに、その温みになんだかとても安心するの。守られているのは私のほうかもしれないと、この頃そう思うんだ。



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