お骨住み(オホネズミ)

 あるとき住んでいたホネの話をしよう。そこは居心地が悪いと、はじめは感じていた。粒子が細かすぎて、ざらざらとした感触も圧もないから、心もとなく不安だった。それまで住んでいたのは、もっと押し出しの強く粗い粒子のホネばかりだったから、その違和感に、俺はホネじゃないところにまぎれこんでしまったのかと思ったほどだった。しかし、しばらくすると慣れてきた。だいたい、ひとのホネに入るというのは、毎度未知の海に跳びこむようなもので、そこの波形に慣れるまで、程度の差はあれ、落ち着かないものだ。そう、ホネのなかはまさに海だ。いのちの情報が行き交う海。情報は光となり波となり流れていく。常に流動していて、決まった形としてとどまってはいない。ホネの外側の膜は硬質だが、なかは密度のある情報の倉庫であり通路だ。いや違うな、情報が運動しているまさにその状態、それがホネのなかみだ。

 ひとたびホネのなかに入ると、俺はまず自分をそのホネに慣らす。動かずにじっとしている。ホネのなかの感触をただ感じてみる。あたたかい冷たい、重い軽い、はやいおそい。全体の雰囲気に、場合によっては、香りや味がすることも、色がついていることもある。でも、大事なのは、そのホネのなかの質(たち)をつかむことだ。キシキシときしむような、ギリギリと苦しそうな、ポコポコとせわしない、というような。ホロホロとはかない、コロコロと楽しそうな、ポリポリと威勢のいい、というような。行き交う情報はどんな性質も帯びていない。情報をやりとりする動きに質(たち)が宿る。それを見極めるまで、俺はひとつところにいる。

 そのホネには、だいぶ長い間じっといていた。なにせ質(たち)がつかみにくい。さらさらとしすぎていて捉えどころがなかったのだ。いまではそういう質(たち)のホネを他にも知っているから適応も早くなったが、そのときは初めてのことに戸惑っていた。それでもよくよく感じていると、そのホネには独特のリズムがあるのがわかってきた。なにか音楽のようにも聞こえてくる、くりかえす流れのリズム。情報が錯綜しあちこちぶつかってまとまりがないのがホネの常だと思っていたが、そこには整頓され制御されている流れがあると感じた。しかしそれがこのホネの本質ではない。いちばんの質(たち)は、そのあかるさだった。いまにも踊り出しそうな、いまにも笑い声がはじけそうな、情報と情報がふれあうときのパチッという感覚。細かい粒子が一瞬の摩擦でちいさくスパークする、その感覚。俺はそれをそのとき初めて体感した。と思った。が、しかし、以前にも感じていたのかもしれない。ごくごく微弱な、それと似たようなかんじを知っていたような気がする。どのホネにもあったのではないか。小さすぎ、頻度も少なくて気にもとめなかっただけで、いままで住んできたどのホネにもあったのではなかったか。

 だんだん俺は、そのあかるさに自分も同調していくような気がした。現に同調していた。俺はそれまで自分のあかるさについて考えたこともなかったので、もとよりあかるさということを思いもしなかったので、それがこんなに気分のいいものだとは知らなかった。ホネの質(たち)に同調したのは、後にも先にもあのときだけだ。質(たち)に同調したら、骨住みはホネになってしまう可能性を孕む。そんなことは誰に言われなくても骨住みなら知っていることだ。でも俺はそのときだけは同調した。そうせずにはいられなかった。俺はあかるくなりながら、ホネじゅうを縦横に駆け巡った。流れ行き交う情報とつかのまのふれあいを繰り返しながら、ますますあかるさは増していった。ものすごい速さでくるくると流されているのに、なんともゆったりとしたおだやかな感覚があった。きっとこのままあかるくなり続けて、このホネの一部になってしまうのだろうと思った。それでもかまわない。しあわせだから。

 はっとした。俺は自分の動きに急ブレーキをかけるようにして、止まった。いま俺は何を感じた?しあわせ?しあわせとはなんだ?いや、なんなのかはすでにわかっている。このあかるさが、このあかるい状態が、それなのだ。これを、降ってわいてきた「しあわせ」という響きと一致させていいものだろうか。あかるささえもさっき知ったばかりなのに。存分にはわかっていないかもしれないのに。しかしその問いは、周りを流れる情報の粒子のように、さらさらと俺から流れ出ていった。きっといいのだ。これをしあわせと呼んでも。

 俺はそのホネに長くは住まなかった。そのホネで受け取るべきものは受け取ったからだ。ホネを去るときに、そのホネの外側の膜のいちばん古くて不要となるだろう部分を、なかからかじるのが習わしだ。これも教わったわけじゃない、そういうものだとはじめから知っていた。だからそのホネもかじった、これまでになく大きく盛大に。俺はいっぱしの骨住みになった。

 次に住んだホネからは、俺はどんな小さなしあわせも感じとれるようになっていた。俺がしあわせと呼ぶあのあかるさ。光と光が、波と波がすれ違いふれるときのかすかなあかるさ。俺はそのあかるさを、もう充分だと思うまで感じきってから、ホネを去る。いまや俺は、骨住みとして自分のやることがはっきりわかっている。俺はひとのホネのなかに住んで、そのホネの、ひいてはそのホネを持つひとのあかるさを、しあわせを、ただ感じるだけのものなのだ。ただそれだけの存在。でも、もしあんたがなにか思い迷うとき、訊いてくれたら答えられるかもしれないよ。俺が感じたあんたのしあわせがどういうものかを。



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