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七月のあれやこれや
今年最初のベランダのツユクサが咲いた。たったいま開いたばかりのような、少ししわの寄った花びらの、深くて透明なあお色。ツユクサのあおは、他のどんな青色とも違う。ことばにならない何かが呼び起こされる、わたしにとって特別で深遠なあお。
ある講座で出会った方が、とあることを仕事と思ってやってます、と話してくれた。仕事と思ってやる。コツンという音を聞いた気がした。それを仕事と思ってやっている。それは硬質な音を響かせてわたしの中に投げ込まれた。
ツバメのひなたちの声がしっかりしてきた。じうじう、とも、ぎいぎい、とも、びーびーとも聞こえる、jとgとbの音が混じった子音で鳴く。鳴き声から、三羽はいるだろうなと思う。それ以上いるのかは判別できない。親鳥がすうっと飛んでくると一斉に声を上げる。二軒隣のアパートの、わたしからは見えないところにある巣の中で、見えないままに営まれているいのちのやりとり。
魂職(こんしょく)ということばを教わった。それはすぐさま、仕事と思ってやる、ということばと響きあった。自分(の魂)がそれを仕事だと思い決めたことをやる、ということ。仕事とは、仕える事だ。仕えるということについて、わたしは以前に書いていた。自分の書いたものが、あとになって自分への気づきとなるのは、書くことの不思議のひとつだ。何に仕えるかは、自分で決めていいのだった。つまるところ、わたしはわたし(の魂)に仕えるほかないのだから。
車を降りたら、蝉の声が空気を震わせていた。この夏はじめての蝉の声は、思ったよりも近くで聞こえて、その音量の大きさに思わずたじろいだ。こんなに大きい声だったかと、毎年驚いているような気がする。夏が来るたび、あらたなものとして蝉の声を聞いているのだ。そう思ったら、ほかのすべての聞く音や見る色を新鮮に感じることもできるのじゃないかと思えた。色も音も匂いも押し寄せてくるような夏のひとつひとつを、あらたなものとして受け取っていけたらいい。
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