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春の夕は甘露

 春の夕空だった。サーモンピンク色がふわぁっとひろがる。その色を食べたくて、口から空気を吸い込む。甘くてひかるあったかい味を思い浮かべる。

 春の色ってどうして美味しそうなのかな。ぼんやり霞んだ空と雲も、おぼろに浮かぶお月さまも、桜のちらちら散る花びらも、鮮やかな菜の花も、どれもみんな美味しそう。きっと蝶々には、世界がこんな風に見えているんだろう。目にするすべてが美味しい景色。

 蝶々になった気分で、川沿いの遊歩道をうらうらと歩いた。気持ちがいいなぁ、春の夕方は。わたしが春を食べているのか、春がわたしを食べているのか、どっちかな。きっとどっちもほんとうで、ほんとうかどうかも気にしない、春ってそういう季節。いろいろのことの境目が曖昧になって、溶けてしまうんだ。

 そんなことを思いながら、はなうたを歌っていたら、どこかから聴こえてきたの。ティンティラ、ティンティラ、ティンティラ、ティン。テントコ、テントコ、テントコ、テン。お祭りのときのような、可愛らしい鐘の音、太鼓の音。気づいたら、遊歩道の先にこんもりと小さなお山があって、そちらのほうから音がする。それはそれは小さなお山で、わたしの膝のした、向こう脛くらいの大きさ。やっぱりお祭りなのかしら。夕空と同じ色の小さなぼんぼりが、いくつも連なってお山に飾られていた。近寄りすぎないように、わたしはその場にしゃがみ込んで様子をうかがった。ティンティラ、ティンティラ、テントコ、テン。お山のお社で奏でられているんだろう。どんなひとがたたいているのかな。あんなに小さなお山なのだから、きっともっともっと小さいひとだろう。こんな大きなわたしを見たらびっくりするに違いない。

 少しずつ暮れて薄暗くなってきて、あたりはますますぼうっと霞んでいる。お山のぼんぼりは煌々と明るくなっていく。鐘と太鼓の音がだんだんと大きく響いてくる。ティンティラティン、テントコテン。あ。甘い香りがする、した。ふわぁっとした。あたりを漂っている。この香りは知っている。これは、この匂いは。

 春に咲く花のすべての香りが、いっぺんに香るような。春に吹く風の運ぶすべての空気が、いっぺんに香るような。春に芽吹く草花のあおい匂い、芽に掘り起こされる土の豊かな匂い、春に歌う小鳥たちの野生の匂い、それらがいっぺんに香るような。これまでの春とこれからの春と、知らない春と知っている春と、終わった春と始まる春と、およそ春と呼ばれるすべての物事とそれにまつわる思い出と夢と未来とが、いっぺんに香るような。

 これは、春の匂い。春というものがもたらすすべての匂い。懐かしいような、切ないような、胸がいっぱいなのにきゅうっと締めつけられるような、でもうれしくてはちきれそうな、いろんな気持ちがいっせいに駆けめぐる。できればこの匂いになってしまいたいな。この香りの美味しさそのものになりたいな。切実にそう思った瞬間、唐突に、柄杓で掬った甘茶をかけられる、お釈迦様の像を思い出す。幼い頃に花祭りで、甘露に見立てた甘茶をそうっと静かにかけてあげたんだ。濡れた小さなお釈迦様は、つやつやとしてうれしそうで美味しそうだった。

 ああ、そうか。あのお山のお社では、甘露が炊かれているんだな。だからこんなにいい匂い。だからこんなに美味しそうな夕空。

 ティンティラ、ティンティラ。甘露を炊いて。テントコ、テントコ。甘露を煮詰めて。お釈迦様だけでなく、小さいひとたちはそれぞれお互いにかけ合っている。それはそれは小さな柄杓で、温かくてまろやかな甘露を、頭からかけ流し合う。ぼんぼりにあかるく照らされて、とてもとてもしあわせそうな顔で。にこやかに微笑んで、どうぞどうぞ、と言いながら、わたしの頭にもかけてくれる。とろとろと頭のてっぺんから流れるそれは、肌から内側にも染み入ってじんわりとあったかい。頭から首へ、肩へ、胸と背中へとゆっくりと染みてゆく。身体の中にこごっていたものが溶けて流され、ただ甘露の甘やかさだけが満たされてゆく。甘露にひたひたに浸されて、身体のなかも外も甘露でいっぱいになった。なんだかほわほわとして、とてもいい心地。どこからが甘露で、どこからがわたしなのか、わからないくらいに、わたしは甘露だった。

 


 気づくと、小さなお山は消えていた。いま見ていた光景が、自分の想像だったのか、実際のものだったのか、よくわからなかった。でも、身体はほんのりと温かく、あたりはかすかに甘い香りがする。わたしはティンティラティンティラ、テントコテンと口ずさんで、来た道を戻った。それがほんとうに来た道だったのか、覚えていない。行く道も戻る道も、みな同じ道のような気がした。ティンティラティンティラ、テントコテン。春の空の霞むのは、春の匂いの甘いのは、甘露が炊かれているからよ。ティンティラティンティラ、テントコテン。



 

 


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