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「目があるんだから、見ればいいでしょう」

「美術している10代男子の不格好さ・無防備さ・虚弱さ・愛おしさ」という長いタイトルで一度かき始めた・・・が、この絵を仕上げた時に、「違うな」と私の中の「プロデューサー」が鶴の一声を放った。

(はい、ここ大事。たとえ、最初にいいアイディアだと思って進めていても、何かが違うと思ったら、必ずその声を聞き逃さないこと。最後の仕上がりに大きく響きま〜す)

うちのお絵描き教室・ティーン・クラスは8~9割が女子。残り1~2割が男子だ。その比率が変わることはほとんどない。そして男子が長期間通うのはさらに珍しい。だいたいの男子はスポーツを選択するからだ。

私が描いたこの16歳男子は微妙だ。続くかもしれないし、「もう来ないっす」と突然消え去るかもしれない。ティーンのクラスは夫のクラスで、私はサポートしている。だから、表立って教えることはほとんどない。明かにこれは間違っているなというところを遠くから見させたりして、気づかせる役目。

だから、この子達を観察する時間がたっぷりある。彼らの様子をスケッチすることもある。


<コーヒーブレイク: ひとくちすする☕️>


ドストエフスキーの著書では「白痴」が一番好きだ。何度よみかえしたかわからない。
こういうシーンがある。

次女アデライーダ: 「公爵、どうか私に何か画題を見つけてくださいません?」

主人公の公爵: 「ぼくは絵のことは何も分かりません。単に見て描けばいいような気がするのですが」

次女アデライーダ: 「見方が分からないんです」

アデライーダの母「あんたたち、何をなぞなぞ問答のようなことをしているの? 何も分からないわ!」「見方が分からないって、どういうこと? 目があるんだから、見ればいいでしょう。ここにいて見方が分からないというなら、外国に行ったって見えるようにはなりません」


<また・ひとくちすする☕️>


私が担当する子供のクラスは9歳から11歳までだ。9才の女の子が大きな声でみんなに向けて言う。

9歳「目が二つあるのに、なんで、二つみえないのかー」
私・即答「脳が一つだからよ」

あちゃー・しまった。ここは、時間を与えてみんなに自由にギ論させるべきだったー。こう言う失敗をわたしはよくする。あかんアカン❌
自分のミスを子供たちに気づかれないように、ちょっとしたウンチクを先生らしく披露する。

「みんなー、こうやって・ひとさし指を立てて、遠くに置いてじっと見てごらん。それから少しずつ目の前に近づけていってみてー・・・指の大きさ変わらないよねー、本当だったら近づくにつれて大きくなるはずでしょう?」

あまりにも自然なことなので、彼らにはこの説明の意味がピンとこない。そこで、iPadのカメラ機能をテレビモニターに映し、その前に人差し指をおいて、遠くから近くに寄せていく、指は超おおきくなり・そこではじめて違いがハッキリすることになる。

「私たちの脳はとーっても良くできていて、じっと見ているものを大きく見えるように自動でしてくれてるんだよー。すごいねー。夜空の満月は大きく見えるでしょう。でも写真に撮ったら、すっごく小さくうつるよねー」

一度明るくなった子供たちの表情に困惑がさす。(満月のくだり・やめとけばよかった・・・) 。


<さらに・ひとくち☕️>
(みんな・大丈夫? ちゃんと・ついてきてるかい?)


絵を描くのは才能によるものか。
答えはいろいろあるだろう。

「脳のトレーニングによって獲得できるスキル」だと、私個人は実感・理解している。
目があるんだから見て・描ける、というわけにはいかない。
どこをどういう目的で見るかという意識が、見る目を養う。あるいはわざと見ない力を養う。
脳トレなので、毎週2時間のレッスンで描くより、毎日15分・目的もって描いた方が効果がある。

「見る」のあとに「描く」がついてくる。「描いた」あとに「さらに見る」が後追いする。

あ・正しくは「見る」よりも「観る」。

私が描いた・この16歳男子は、下向いて描く時間よりも「観る」時間の方が長くなってきた。これは、良い兆候だ。彼は伸びるかもしれない。
しかし、16歳男子はずっと、この指の形であごを支えながら描いていた。芥川龍之介みたいなポーズで絵が描けるのだ。これは、才能かもしれない。


えんぴつ画・MUJIB5ノートブック


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