春の日差し・オトウト(#91)
私は小学校3年生(9歳)くらい。歩き慣れている幅の狭い道をスーパーに向かってひとり、ひとつの強い思いに打たれて泣きそうになっていた。「私には弟がいるんだ。なんて不思議なことだ。素晴らしいことだ。感動的だ」と思っていた。
これは妄想ではなくて、本当に起こったことだ。あまりにも不思議な出来事だったので、定期的に思い出しては忘れないように記憶にとどめる努力をしてきた。だから、ここに書くことで私はホッとしてる。だいぶ前からこのことを書きたいと思っていたけど、書いたところで読者にはつまらない話として伝わるんじゃないかと危惧していた。ずっと頭の中で転がしていたエピソードなのだ。
そして今朝・ああ・そう言うことかと気づいた。
その前に私と弟の関係について。
5つ下の弟と私はとうてい同じ両親から生まれたとは思えないほど、似てない。見た目も性格も好みもぜんぜん違う。「実はあんたは養子としてうちに来たんだ」といつか私は言われるんじゃないかと思っていた。それくらい違っていた。しかしそう言うことにはならず、私と弟は姉弟であり、姉弟であり続けた。直毛の私と違って巻き毛でまつ毛が長くて可愛い坊やだった弟は恐ろしく落ち着きがなかった。いっぽうで「目ーつぶってー、アメ玉あげるから口あけてー」と言って小石をいれる私もひどい姉だった。5歳違うと、小学校は別にして、同じ学校にいることはない。私たちは特に仲良くもなく悪くもない姉弟として育ったのだ。
あの啓示的な強い思いに打たれた日は、きっと春だったに違いない。そして春の温かい日差しと、爽やかな風と、浮遊するような歩いている身体の動きがマジックを起こしたのだ。たまたま「弟がいる」ことで感動したけど、もし、猫を飼っていたら「私には猫がいるんだ」と思って泣くほど感動していたに違いない。春という季節の成せる魔法だったのだ。
今朝、私は通りを歩きながら似たような気持ちを味わっていた。心が震えるような感覚。特に理由はないのに、生きてるってなんて素晴らしいんだ、と身体も心も浮遊していた。
「弟思いの姉」という美談にならなくてホッとした。どう考えてもそれは私ではないから。春の日の魔法だとわかって胸にストンと落ちた。そう、今シドニーは全開で春なのだ。「生きてるってなんて素晴らしいんだ」と浮遊している私の横に、とまらない鼻水と格闘して目を腫らしている花粉症の夫がいる。そう、人生はすこぶる不公平なのだよ。
あなたにもあったかな・季節の魔法・浮遊の体験が?それはどんな魔法だったのだろう。
あなたの想像力がわたしの武器。今日も読んでくれてありがとう。
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