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手の一枚

手は情報を伝える。
良いこともね。
悪いこともね。

手はいろんな場面で、相手に情報を伝える。
手や指で直接伝えること。友達と待ち合わせた時に「こっちこっち!」と手招きする、お店で「これとこれとこれ、ください」と指差しする、楽しい時間を過ごした後に「じゃあ、またね!」と手を振る。

指を使ってメールやブログを書いて、その瞬間の情報や、過去の情報、これからの情報を伝えることもできる。
リモコンのボタンを押せば、テレビから情報を得ることができる。
また、指で本や雑誌の表紙をめくったら、書物の世界に飛び込むことができる。

時に、リズムを刻む時もある。
ノリのいい音楽を聴きながら、手拍子をする。楽器を持って、メロディーを奏でたりもする。聴いた音楽が心に響いた時は拍手する。「アンコール!」という時も手をたたく。

この時期になると思い出す人がいる。

ずいぶん昔、自分が勤めていた職場によく来ていたAさんだ。Aさんは、おじいさん。職場の近所に住んでいて、ちょくちょくやって来ては、私たちとよくおしゃべりをしていた、手話で。

初対面で会う人にも、大きな身振りと早口な手と指と豊かな表情の顔で、どんどん話しかけていった。私も話しかけられた一人で、最初のうちは、Aさんにニコッと会釈するのが精いっぱい。

Aさんは、自分の言いたいことが相手に伝わらないと「なんで分からんとか!」と訴えるように、相手の目を見て何度も説明する。どうしても分からない時は、筆談、いや、携帯のメール画面を開いて、それに文章を入力して教えてくれた。

撮った。

そんなAさんと会話しているうちに覚えた手話がたくさんあった。Aさんは根気よく私たちに手話を教えてくれた。あれから、だいぶ時も経ったので、覚えている手話はかなり減ってきているが、今でもちゃんと覚えている言葉がある。

「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
「ごめんなさい」
「ありがとう」

ヘッダー写真は「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」を言う時の指。人と人が向き合って、お辞儀をする様子。挨拶の言葉を教えてくれた時にAさんがそう説明していた。なるほど。

Aさんは、とにかくアグレッシブだった。今日は映画を見てきたばい!とか、ボーリング大会で優勝したとぞ!とか、明日は温泉に行ってくるったい!とか。私も県境を平気で2つ越えるような一人ドライブをよくしていたが、おそらくそれ以上にあちらこちらを堪能していたに違いない。

そんなAさんが、ある春の日、突然姿を見せなくなった。
職場の同僚と「どうしたっちゃろうね?」「まーた、どっか行っとーとよ」などと話をしていたが、その日の夕方、Aさんが交通事故で亡くなった事を知った。

夜、大好きな煙草を買いに行く途中、信号のない横断歩道で車にはねられたそうだ。車はクラクションを鳴らしたそうだが、Aさんには聞こえない。だから、そういう時はパッシングしてくれと、以前Aさんに言われたことがあったが、そういうことかと、この時納得した。それが正しいのかどうかは分からないが、少なくともAさんはそうしてほしいと話していた。そして、クラクション云々もだが、Aさんも車も、まわりを見渡して気をつけていたのだろうけれど、と同僚と話していた。

横断歩道には、しばらく、そっと一つの花束が供えられていた。

Aさんから教えてもらったことは、たくさんあるけれど、手や指を使って、たくさんの情報を伝えられるんだということに気づかせてくれたことが一番大きかったように思う。できんことはなかとよ、と言って、何度も言葉を教えてくれた。Aさん、ありがとう。

手は気持ちも伝える。
良いこともね。悪いこともね。

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