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米粒拾いと「いのちの世話」

「また米粒を拾っている…」

1才9ヶ月になる息子は納豆が好きで、ご飯と混ぜてやると機嫌よく全部食べる。スプーンで器用に豆だけすくって食べることもある。(関西人の義父母には衝撃の光景らしい。大人でも食べられないのに、と褒めてくれる)

食事をする息子はとても人間くさい。好きなものを一心不乱に食べている時のキラキラした目、荒い鼻息、ハムスターみたいにモゴモゴしている頬。だいたい、好物ほど詰め込みすぎるきらいがある。

右手でぎゅっと握ったスプーンからこぼれるご飯を、左手で口に押し込んで、その指についた米粒をまた右手でつまんで、ああ、腕にもついちゃった…それをそのネバネバの口で食べるの、ああ、それはやめてほしいけど、ああ。

肝心なのは、「ごちそうさま」のあとだ。息子が脱走する前に、米粒と豆粒でベトベトのお食事エプロンを脱がし、ネバネバの手と口を拭いてやり、少し麦茶を飲ませ、その間にほかの食器を下げる。テーブルを拭き、椅子を拭き、床を拭く…たくさん米粒が落ちている。人参も、玉ねぎも。あー、わたし、また米粒を拾っている。

育児ってずっとそう。「命を守る」とか「成長を見守る」とか、当たり前にやらなければならないことがあって、その上さらに「米粒を拾う」のだ。食卓でもお風呂でも、ベッドの上でさえ、それはついてくる。母親たちは、四六時中、ベトベトやネバネバやグチャグチャと戦っている。

午前二時の授乳

里帰り出産を終えて三人暮らしが始まった時、私はとても不安定で、よく夫と喧嘩をした。三ヶ月くらい、いや半年は続いた気がする。喧嘩というより、私が一方的に不安をぶつけていただけなんだけど。
毎日電車に乗って働きに行く夫が、すごくうらやましい。彼だってすごく大変だ。夫が夜遅くまで働いて得た、そのお給料がこの家を支えている。わかってはいる。

夫の両親を除いて、知り合いが1人もいない街。
夜中に授乳しながら、SNSを見た。地元の友人たちの近況報告が並ぶ。

23才、友人たちは大学生~社会人2年目くらいで、ものすごくキラキラしていた。(そういう風に見えた。)
就活、インターン、卒論、研究発表、国家試験。
コンサル、営業、商品開発、銀行員、プログラマー。
「ようやくローンチできました!!」
なにそれ、かっこいい。

汗をふきよだれをふき、肌着を替えおむつを替え、気絶寸前で母乳をあげている自分が情けなくなってくる。焦りや不安、孤独とはまた違う、「卑しさ」みたいなものを感じていた。

「生」に触れる人々

「チャングムの誓いっていうドラマ観たことあります?あれ、医女ってすごく位が低いでしょう。私、人の背中に触れていると、時々思い出してしまって…ああ、わかるなあ、って思うんです。」

結婚式のメイクを担当してくださった女性の言葉。フリーのメイクさんで、自宅ではエステサロンもやっているという。

煌々と明るいメイク室で、自らの卑しさを語る人に驚いて、喉がぎゅっと詰まるような感じになった。彼女の手を見る。私の髪に、白い花を飾るその手。

子どもを育てる今、私が感じる「卑しさ」は、あの人が言っていたのと同じだろうか。生身のものに触れること。その体温、汗。ベトベトやグチャグチャと向き合うということ。

「いのちの世話」は、暗くて湿っぽい。

「いのちの世話」

…たとえば出産の助け、食材の調達、排泄物の処理、病や傷の手当て、看護や介護、看取りや清拭や埋葬といったいとなみをひとびとはどれだけじぶんたちの手でできるだろうか。ほぼすべてできないし、したこともないのではないか。生き存えるためにひとがどうしてもしなければならないこと、けっして免除されることのないこと、つまりは《いのちの世話》の能力をわたしたちはほぼすべて失っている。(中略)生き存えるために欠くことができない仕事を、じぶんではしなくなった、おたがいにやりあわなくなった。
鷲田清一『しんがりの思想 反リーダーシップ論』より

2020年、ウイルスの流行にともなって、社会が大きく揺れている。
これからは働き方や暮らし方、コミュニケーションのあり方がどんどん変わっていくだろう。良い変化もたくさん起こっていると思う。

でも。

どれだけ仕事のリモート化が進んでも、現場から離れられない人がいる。例えば、農家の人。医療従事者、保育や介護福祉に関わる人。土を掘り、道を作り、ものを運ぶ人たち。海外では火葬が追いつかないという問題も起きた。
彼らの仕事こそ、まさに「いのちの世話」だ。

私もまた、自分のいのちを誰かに預けて生きている。ベタベタにもグチャグチャにも触らず、自分の落とした米粒を誰かに拾ってもらっているのだ。名前も顔も知らない誰かに。

そのことが良いとか悪いとか、それを論じたいわけではない。でも、みんながわかっているべきことだと思う。そして、どうか彼らに優しくしてほしい。「いのちの世話」はそれ自体が暗さや卑しさを孕みやすいものだから。本当は、とても尊いことのはずなのに。

情報化が進んで、いろんな働き方ができるようになった今、改めて考えたいこと。
私は、全ての現場のひとが尊重される社会を望みます。

おわりに

めそめそと泣いていた日々を越え、私はいま、基本的には楽しく育児をしている。夫や両親も協力的でありがたい。息子は凶暴だが、成長していくのを見ていると面白いし、発見がたくさんある。川が好きで、石が好きで、たんぽぽが好き。まだアイスもチョコレートも知らない。やっと少しだけ話すようになってきて、これからがますます楽しみだ。

米粒を拾いながら私は考える。
息子を育てるのは私の仕事だ。どんなにベタベタでもギトギトでも放棄できないけれど、私はちゃんと、そこに光を見ている。

いま、現場にいる誰かはどうだろう。
ちゃんと光を見られるだろうか。辛い思いをしていないだろうか…


日々、現場で働くみなさん、ありがとうございます。
あなたのおかげで、私はこうして生きています。
救われているひとが本当にたくさんいます。
あなたの仕事は尊く、かけがえのないものです。
そのことを、どうか忘れないでください。

それを伝えたくてこの文章を書きました。

ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。


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