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「恋愛が苦痛」な僕に『シン・仮面ライダー』が刺さった話をしたい
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『シン・仮面ライダー』、皆さんは何回観ましたか? 僕は4回も観ちゃいました。
上映終了からまあまあ時間がたって、ネタバレも本格的に解禁ムードになりネット上には感想やら批評やらアレコレ溢れておりますね。僕もせっかくブログをやってるので、感じたことを書き留めておこうと思った次第です。
初めて鑑賞したときは目の前で繰り広げられる光景をただただ飲み下すのが精一杯で咀嚼する暇がなかったんですが、あらためて見返したときにはだいぶ余裕を持って、雑念にとらわれずに作品そのものを味わうことができました。
なので今回は、やれあのシーンは初代の何話のオマージュだとか、あの要素は漫画版から拾ってきてるとかみたいな「やめろ庵野ーっ!」的な話はあんまりしません(そのへんはまたいずれ)。
庵野さんの作品ってだいたいいつもそうなんだけど、この『シン・仮面ライダー』はとくに“コミュニケーションの話”をしているな、というのが僕の印象なので、そのあたりについて書こうかと。
(以下、『シン・仮面ライダー』のネタバレがまあまあ含まれます。これを読んでる人はもうみんな本編を観ているという前提で書くので、いちいち説明もしません。あしからず)
“コミュ障”の本郷猛
突然ですが、僕は“人付き合い”が苦手です。なぜかというと、「他人の考えていることがわからない」から。
当たり前のことですが、人間というのは自分以外の人が考えていることを外部から完璧に把握することはできません。なので、相手の言葉や態度からその人の考えていることを“察する”必要があります。
この“察する”というのが僕は子供の頃から得意ではありませんでした。相手の気持ちがわからないせいでその場の状況と噛み合わない言動をとっては周囲の人を困らせたり怒らせたり、シラけさせたりして、そのたびに苦労してきました。
おそらく、「コミュ障」と言われる今作の本郷猛も同じような苦労を味わってきたのだろうと思います。
僕もちょっとそのケがあるからわかるんですが、コミュ障の人って「コミュニケーションによって相手を傷つけること」を恐れる、より正確に言えば「相手を傷つけることで自分が返り血を浴びること」を嫌がるんですよ。
相手を不快な気持ちにさせることで、その相手に怒られたり嫌われたりして自分の心が傷つく・・・・・・あるいは、明確に悪意が込められた心無い言動をぶつけられる(平たく言うと“イジメられる”)という経験をしすぎたことで、他人との交流を避けるようになる。コミュニケーションという行為そのものがはらむ暴力性・加害性に敏感になるんですね。
この、“コミュニケーションがはらむ加害性”というテーマは、庵野監督の『エヴァンゲリオン』でも「ヤマアラシのジレンマ」や「A.T.フィールド」といった形で描写されていました。
『シン・仮面ライダー』においては、“ライダーの戦闘シーン”がストレートにコミュニケーションのメタファーになっている・・・・・・というのが僕の印象です。
まずは冒頭の戦闘シーン、ショッカーの戦闘員たちをライダーが次々と惨殺していきます。ばしゃばしゃと血飛沫をあげながら死んでいく戦闘員のビジュアルはかなりショッキングです。
そしてタイトルロール後の山小屋での会話シーン。取り乱した本郷がルリ子に詰め寄るときに彼女の腕を掴むんですけど、そのとき一瞬「うっ」みたいな感じで固まってから手を離すんです。
これはおそらく、まだ改造人間としての力を制御できていない本郷が「強く触れるとルリ子の腕を折ってしまう」と感じて咄嗟に手を離したんだと思います。
このシーンを見て、僕は上記の「本作における戦闘=コミュニケーションのメタファー説」を確信するにいたりました。
この「触れた相手を傷つけてしまうかも」みたいな気持ちって、まさに“コミュニケーションの加害性”に対する忌避感そのものなんですよ。
戦闘員を一方的に殴り殺して返り血を浴びるライダーの姿も象徴的で、おそらく本郷にとってのコミュニケーションって“ああいう感じ”なんだと思うんです。彼にとって他人というのは恐ろしいものであり、それ故に自らを守ろうとするあまり相手を傷つけることでしか他者と関われず、それによって多くの返り血を浴びすぎた。
ルリ子の腕を折ってしまいそうになるシーンも、彼の「他者との適切な距離感が掴めない=思うように触れられない」感覚を「力を制御できない」という形で見せているんではないかと。(この時点ではルリ子とはまだ初対面なので、なおさらどう接すればいいかわかんないだろうし)
ストーリーが進むにつれて、本郷は徐々に自らの闘争心を制御できるようになっていきます。これは、彼がルリ子という(おそらく人生で初めての)心の底から信頼できる他者と巡り会えたことで、“コミュニケーションの加害性”に怯えることから抜け出せたのと無関係ではないと僕は思っているワケです。
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触るものみな 傷つけた
そんな本郷と対照的な人物がイチローです。彼も本郷と同じく“人間の不条理”によって家族を奪われ、それがきっかけで他者に対して心を閉ざすようになってしまったことが語られます。
イチローは“ハビタット計画”を実行することによってすべての人間を「嘘偽りのない世界」へ送ろうとしていました。彼は、人間を信じることができなくなってしまっていたのです。
同じ絶望を抱いていながら、自らを変えることでそれを乗り越えた本郷と逆に世界のほうを変えようとしたイチロー。この2人の違いはなんなのか。
おそらく、本郷の父親は警察官だったのが大きいのではないでしょうか。
本郷の父は、凶器を持った犯人に対して言葉による説得を試みるも結局は犯人に殺されてしまい、その犯人もまた同僚の警官によって射殺されます。自分が救おうとした相手を救えなかったどころか、その救おうとした相手に殺されてしまったのです。
目の前で父を亡くした本郷はそのトラウマによって“強い力”を欲するようになるわけですが、本郷は最期の瞬間まで他人のために尽くし結果的に家族を顧みなかった父を軽蔑しつつ、いっぽうで尊敬してもいました。「父のように誰かのために尽くしたいし、父とは違ってそのために力を使えるようになりたい」と。
言ってみれば、本郷の父が犠牲になったのはあくまでも自らの信念に殉じたためであり、本人も、また家族もどこかで覚悟していた・納得していたと思うんですよ。「父はそういう人だから」「それが父の望みだったなら」と。
だからこそ本郷は、父親を失った無念さを受け入れ、自分の中で消化することができた。
しかし、イチローの母親は違います。彼女はあくまでただの一般人であり、通り魔による突発的な犯行で命を落としてしまったのです。
一方的に家族を奪われたイチローの心には、純度100%の被害者意識だけが残ります。そしておそらく、それは母を殺した犯人に対する憎しみだけではありません。
おそらく、イチローは“ある日突然いなくなってしまった母親”に対しても複雑な感情を抱いていたのではないでしょうか。
イチローは人間や社会に対する不信感をたびたび口にします。とくに印象的なのが、ルリ子による1度目のパリハライズの際に彼女に言った「人は他人を信じることで裏切られてもきた」という台詞です。まさか、母親を殺した犯人に対して「信じていたのに裏切られた」とは言わないでしょう。
彼はいったい誰を信じ、裏切られたのか。父親か? ルリ子か?
それもあるかもしれません。しかし、彼がもっとも信じていた人間はやはり母親しか考えられないんですよ。ずっとそばにいてくれると思っていたのに、永遠にいなくなってしまった母。そんな母のことがイチローは“許せなかった”のではないでしょうか。
だからこそ全ての人間の魂を肉体から解き放ち、嘘偽りのない永遠の楽園であるハビタットへ=あの世へ送ろうとした。自分の母のような人間を二度と生まないために・・・・・・。
イチローにとっては、最愛の母もまた“自分を裏切り、傷つけた”相手だった。だから彼は、全ての人間を信じることができなくなってしまったのでしょう。信じたらまた裏切られる。なら最初から信じないほうがいい。
ダブルライダーと第0号のラストバトルにおいて、第0号に攻撃されたライダーが派手に血を吐くシーンも象徴的です。冒頭での本郷による虐殺と同じく、このシーンもまた“コミュニケーションのあり方”を戦闘を通して描いていると解釈できます。
君のままで変わればいい
さて。ここまで、あの男についてまだ一言も書いてませんね。
そう、みんな大好き一文字隼人です。
(なぜ彼について書くのを最後に回したかというと、難しいからです。彼、難しい人なんです)
一文字は、他の登場人物たちと比べて人間的に成熟している、ように見えます。
なんたって、本郷と違って初登場時からすでに自身の力を制御してますからね。K.K.オーグとの戦闘シーンでも流血描写はいっさい見られません。
これはやはり、一文字が圧倒的に“コミュ強”であるということを示唆した描写でしょうな。
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初対面の本郷のこともなんかめっちゃ褒めてくれるし、話し方も明るいし、ライダーチップスのおまけカードにも「誰とでもすぐ仲良くなれる」とか書いてあるし。ものすごくいいヤツなんですよ、一文字は。
実際、一文字が登場してから映画全体のトーンが割とはっきり変化するんですよね。彼の持つ“明るさ”が映画の作風や、本郷の人間性にも少なくない影響を与えています。
一文字隼人という男は、孤独だった本郷にとって初めて同じ境遇を分かち合える相棒であり、ルリ子にとっても安心して本郷のことを任せられる心強い相手だったことでしょう。
ルリ子が本郷に「“辛い”という字に横棒を一本足すと“幸せ”になる」と語りますが、まさに一文字は本郷やルリ子にとっての“横棒”のような人だったのです。
一文字は自身のことを「群れるのが好きではない」と言いますが、ショッカーライダーに苦戦する本郷を助けたさいには「群れるのは好きじゃないが、好きになってみる」と言い、ラストシーンでは本郷とルリ子の思いを継ぐために「苦手な相手と付き合う努力」をします。
彼は確固たる価値観を持ちながら、状況に応じてそれを変えることができる人なんです。
それってつまり、「変身」するってことなんですよね。
“強くなる”というのはなにも、改造手術でバッタと合体することじゃない。ただ、ほんの少しでも昨日より“良い自分”になれればいい。
そんな生き方を体現しているのが一文字隼人なんですよ。
・・・・・・。
タイトルにある通り、僕は恋愛が苦手です。今までの人生で人付き合いを避けて通ってきすぎたせいで、他人と上手く距離を詰める方法がわかりません。
よく人に恋愛相談をすると、「へぇー、好きな人いるんだ。いいじゃん。付き合う前の片思いっていちばん楽しい時期だね」とか言われたりするけど、全くそんなことはない。片思いが楽しかったことなんてほとんどないです。
「この人は俺のことをどう思っているんだろう」
「この人は俺と話してて楽しいのかな」
「ニコニコ笑いながら俺の話を聞いてくれるけど、本当に笑ってるのかな。営業スマイルかもしれないぞ」
「俺からのメッセージへの返信も、「ありがとう!!」とか「嬉しい!!」とか書いてるけど真顔で打ってるかもしれないし、本当は面倒だけど気を遣って返事してくれてるだけだったりして」
「嫌われたらいやだな」
「この人、本当は俺のこと苦手なんじゃないかな」
「俺のこと嫌いだけど表面上は仲良くしてくれてるだけかもしれない。女の人ってそういうとこあるって聞くし・・・・・・。社交的な人だから、本音と建前の使い分けなんて朝飯前なんだろうな」
「どうせフラれるんだから、諦めたほうがいいのかもしれない」
「あの人の本当の気持ちを知るのが怖い。知ったらたぶん立ち直れなくなる」
「会いたいけど、会うのが怖い」
・・・・・・みたいなことばかり考えてしまって、好きな人のことを考えるほど心が締め付けられるように痛みます。嗚呼、もう恋なんてしないって誓ったはずなのに・・・・・・。
“他人が苦手”なやつが“他人を好き”になってしまうと、本っっっっ当に面倒なことになるんですよ。
なぜそんなことになるかというと、それはやっぱり他人を信じられないからなんだと思います。コミュニケーションを通じて傷いてきた経験がトラウマになって堆積してるんです。
初めて本編を観たときはそうでもなかったんですが、2回目に観たときにイチローにとても共感したんですよ。彼はきっと今の自分と同じなんだ、ということに気づいたんです。
他人の心がわからないから、自分以外の全てに対して常に怯えている。
そんなイチローに、本郷は言います。
「僕には他人のことがわからない。だから、わかるように自分を変えたい。世界を変える気なんかない!」
「人生の全てに、無駄なことなんてない!」
最終的に、イチローは本郷とルリ子の説得を受け入れて「ルリ子が信じた人間を信じてみることに」します。
彼もまた、最期の瞬間に変わることができた。
本作における“仮面ライダー”は、みんな他者との関わりを通じて“変身”していきます。
ですが、最後まで生き残ったのは一文字隼人、ただひとりです。本郷とイチローは傷ついて傷ついて、死の直前にようやく変わることができた。
変わることって、簡単なことじゃないんです。人が変わるためには、ときに死んでしまうほどの痛みと苦しみを伴うこともあります。耐えられる人ばかりではないのです。
だからこそ、最後まで命を投げ出すことなく“変身”できた一文字は、真の意味で“仮面ライダー”的な生き方を体現しているキャラクターなんだと僕は思っています。
イチローに同情し、本郷に共感し、一文字に憧れる。
僕にとって『シン・仮面ライダー』はそんな映画です。
僕も一文字のように、苦手な“人付き合い”を好きになってみる努力をしよう、と思いました。もう少し素直に、相手の態度を信じてみよう。すぐには無理だとしても、ちょっとずつ、受け入れていこう。
「俺もいつか、仮面ライダーになりたい」
そう思わせてくれたから、本作はヒーロー映画としては100点満点なんじゃないでしょうか。
余談(じつはいちばん繊細な男のこと)
最後に、一文字のなにが難しいのかちょっと説明しておきましょう。説明といっても、あくまで僕の個人的な解釈ですが。
僕はさっき一文字のことを「コミュ強」だと書きました。実際、ライダーチップスのカードの解説文にも「誰とでもすぐに仲良くなれる」とあります。
ただ、この解説って一見すると作中の一文字の(本人が語る)キャラ付けと矛盾してますよね。だって、彼は「群れるのが嫌い」なんだから。
これは僕の推察ですが、一文字もまた本郷やイチローと同じようにコミュニケーションによって傷つくことを恐れていたんです。ただ、彼はその恐怖をやりすごす術に長けていた。
つまり、一文字はあくまで他人と“打ち解ける、心を開く”のが得意なのではなく、むしろその逆、“ほどほどにうまくやる”のが得意だったんです。
他者とのコミュニケーションにおいて巧みに主導権を握ることで、「俺とあんたの距離はこのぐらい」と素早く一線を引く。
それが一文字の処世術だった。『エヴァ』のキャラに例えるならミサトさんタイプですね。
そんな彼が初めて出会った本当に心を許せる相手が本郷だったんでしょうな、きっと。
じつは一文字も本郷との出会いによって救われていた・・・・・・なんという美しい友情でしょうか。
「俺たちはもうひとりじゃない。いつもふたりだ!
ふたりでショッカーと戦おう」
終
(気づいたらけっこう長く書いてましたね。まさかこんな文章量になるとは思ってなかったので、自分でもややびっくりしてます)
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