プレゼントはプレゼンス

クリスマス・イブ。

今年は世の中のイベント事の色々が本当に心に影響してこない年だった。

盆暮れ正月がこんなにイベントとしての日常への圧をひそめたのはコロナのおかげかもしれない。花屋の店先に並んだ…(いけない、歌いだしそうになる)ポインセチアやシクラメン(別の歌を歌いそうになる)を見てもビクともしない心の内ったらどうだ。クリスマスを見たことも聞いたこともない原始人のように、泰然として花々の色をただ美しいな、と思う感じ。

外側からの影響を受けなくなったのだろうか、と思うと少し鈍化した感性をさみしくも思うけれど違うな、とも思う。私の感性は今年、そこではない領野で心底働きまくっていたので世間で何が起ころうと大した関心事にはならなかったのだ。

外と交流しているように見せかけて常に自分の内側を見て、慄き、壁を削っていくような一年だった。なんだか総括に入っているかのような口ぶりだけれど、これはこれからまだまだ続くのだろう。その確信はある。はじめからあった。

私は自分で言うのも何だけれど究極の怠け者である。寝ていてよろしい、と言われれば健やかに眠り続け、その間は二酸化炭素を少々発するぐらいで世界に何のご迷惑もおかけしない。ツタンカーメンの如く真っ直ぐ眠ることも出来るので、棺サイズのスペースさえ与えられれば実に静かにこの世に存在していられる。あとは本物のナマケモノみたいにあなたが私の口元までバナナを持ってきてくれたらにんまりしながらもぐもぐするだけだ。甘やかせてくれたらどれだけでもにんまりもぐもぐしていられる。

そんな人間である自覚はあるのと同時に、物事の成就や達成というものにやたらハードルを設けがちであるのも薄々感じていた。

ひとはそれぞれに色んな葛藤を内包しているものだけれど、私の葛藤はここにあるのかもしれない。ナマケモノと苦行者。そのどちらもが譲り難く自分である、ということ。

苦行者は求道者でもあって、道なき道を嗅ぎつけると無意識にそちらへ歩き出す。道なき道なのに到着地をなぜか確信している。ただ、そこへ至る道は全く見えない。まったく。予測や期待というものがコンパスとして役に立たない領野をただただ進む。おおむね、匍匐前進で。時に沼にはまったり穴に落ちたりしながら、それでも進む。

何のために?という問いは意味をなさないどころか浮かびもしない。

それが私のやるべきことだから。それだけとしか言いようがない。誰に言われたわけでもないけれど、もしかしたら遠い昔、この世ではないどこかで申し渡しを受けていたのかもしれない。そう思えば私自身も逆に気が休まるというものだ。もうそういうことにしておいて下さい。

甘やかな日常を楽しみたいだけなのに、と私の金星が言う。その瞬間、天王星がそんな生温さは耐えられない!と横槍を入れてくる。感じて楽しみたいの!と跳ね飛ぶ月を真向こうの冥王星がぐーっと抑えてくる。どこまで息がもつかい?とスパルタな力試しをして跳ね返り具合を見ている。じっくりと深く官能し愛し合おうとする火星はクルクルと回り続ける風車のような知性担当の星々を見上げて少し目を回している。

そのような、まとまらなくも求道的な私の内なる星々と、宇宙を現行する星々の響き合いを読み解き人生の質感を確かめてきた。図らずもイブの日に。

これはあくまで私の人生の物語であるけれど、誰しもの生もこのようなエッセンスで出来上がっているのでしょう。各々の、その質感で。

私というものは(自分においては)とても大きくて、同時に宇宙のなかの一分子に過ぎないということを感じられ、そして自分の辿る道のいちいちが自分にとっては全く間違いのないものであることが、ただそうだと感じられることが何よりのギフトでありました。メリークリスマス。ミスター…あ、違った。

ともあれ、

We wish you'r merry Christmas!




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