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漫画「TO-Y」をめぐる私の気づき 女性の描き方と感覚過敏

上條淳士氏の漫画「TO-Y」を読んだのは女子高生の頃。
読んだときにふたつの疑問が生まれ、そのうちのひとつの疑問を解き明かしたことが、自分にとってあまりにも大きく、もうひとつの疑問を忘れ早二十年。
先日、ふと目に留まった上條先生のツイートに答えが書いてあった。
あまりにシンプルな答えに感動し、私はコメントを入れてリツイートした。

男はカッコよく 女はエロく だと、女性キャラクターにムカつく。
私はそんな女子高生だったから、女性がカッコよく描かれた上條先生作品の女性キャラにはムカつくことがなかったわけ。
それは、
性的魅力を欠いた自分自身へのいらだちや、
女をウリにすることを卑怯だと思う気持ち、
性的な要素ばかりを強調して女性を描くことへの腹立たしさ、
そんなものが複雑に絡み合って、「少年マンガに出てくる女性キャラにムカつくことが多い」という現象を産んでいたのだろう。

さて、次に女子高生時代に解き明かし済みの、残るもう一つの疑問についてお話ししよう。

私は少年マンガを読み続けることができなかった。
ストーリーがどんなに面白くても、読み進めるうちに心が曇っていくというか疲れてしまって、読み続けられなくなる。それはけっして女性キャラのせいだけではなかった。
中学高校時代は友人同士、漫画の貸し借りを盛んにしていたが、少年マンガに関しては「貸す」と言われても断ってきた。面白いから読んだ方がいい、と勧められても断ってきた。

面白いのに疲れて読み続けられない、という状態は、私をひどく不安にさせた。自分が何に疲れているのかわからないと少年マンガのすべてを避ける以外、「少年マンガの中にある私を疲れさせる何か」を避けようがない。
その「何か」は少年マンガ以外のところにも存在するかもしれず、人生においてその「何か」を避けられないまま、自分は心を曇らせ疲れていくのかと思うと、未来が一段明るさを落とすような感じがした。

「TO-Y」を私に貸してくれたのは、仲良しのちひろちゃんだった。私はいつものように最初は断った。
「だってそれ、少年マンガでしょ? 私、少年マンガは…なんか、ダメなんだよ」
 ちひろちゃんはけっして押しの強い性格ではなかったけれど、そのときは引き下がらなかった。
「でもね、カイエっていう蘭丸によく似たキャラクターが出てくるんだよ!これ描いてる漫画家さん、きっとスライダースのファンだよ!」
蘭丸、と聞いて、私の中で断る理由がふっとんだ。
「読む!」
 読めばつらくなる少年マンガでも、スライダースのギタリスト、蘭丸(土屋公平)に似たキャラが出てくるのであれば話は別だ。

 THE STREET SLIDERSは、当時、ちひろちゃんが夢中になっていたバンドのひとつで、私もちひろちゃんの影響で聴いていた。洋楽も邦楽も聞き、邦楽はメジャーからインディーズまで幅広く聴いていた彼女に比べ、自分はスライダースの楽曲のカッコよさを十分の一も理解していないような気がしていたけれど、私は私なりにTHE STREET SLIDERSというバンドを愛していた。音楽よりも彼らのヴィジュアルがスキな残念なファンだったかもしれない。
白い羽のジャケットを着た蘭丸の写真を、休み時間にちひろちゃんと見ながら、「天使ー!」と叫んだこと。
「風が強い日」という曲のMVは、遠くにボーカルのハリーが立っているところへカメラがだんだん近づいて行く、ただそれだけの映像なのに、MVとして成立していた。言葉にできない「圧倒的なもの」を感じて、繰り返し見たこと。
そんなことが思い出される。
  
「TO-Yは、面白くて吹き出しちゃうから授業中に読むのはやめた方がいい」
 そうちひろちゃんに忠告されたのに、私はガマンできずに授業中に読み始めた。笑いをこらえきれず吹き出してしまい、咳払いでごまかす、ということを繰り返しながら、私は心の曇りも疲れも感じないどころか、「眼球が喜ぶ」ような感覚を味わっていることに気がついた。
「なんだろう、この感覚は。この漫画になにがあるんだろう?」
 私は漫画を見ながら考えた。答えはすぐに出た。
「違う。「ある」んじゃない。線が「ない」んだ!」

「線がない」と言ってしまうと大きな語弊が生じてしまうが、これは当時の私の心の叫びそのままだ。
 ここで拙著『わたしは、こうして“本当の自分”になる。「自己肯定感」の低い私が幸せになった5つのステップ』から引用したいと思う。

”中学生になって、劇画調の少年マンガを読もうとしたときストーリーが面白くても読み続けられませんでした。
線が多すぎて疲れるため読めないのだと高校生になってからわかりました。
若かりし頃の私の目は、省略して知覚することが不得手だったようです。
四十代に入っての目の衰えなのか、はたまた学習なのかはわかりませんが、その「省略」ができるようになりました。例えばマンガで人物の顎の下の影の表現が斜線で描かれていると、四十代の今は斜線を影と認識してグレーのように知覚できるのですが、若かりし頃の私には斜線は斜線のまま、主線である輪郭線と同じくらいの強さを持って目に入ってきていたのです。”

「線が多すぎて疲れるため読めないのだと高校生になってからわかりました。」
この一行には、TO-YやTHE STREET SLIDERSやちひろちゃんや私の苦悩のエピソードがベースにあるのだ。
 
 たくさんの人がいるカフェで、目の前の友人の声だけを拾うことができるのは、私たちの脳は情報の取捨選択ができるから。
 線が目に入りすぎて疲れるのは、取捨選択できずにすべて情報として取り入れていたからなのだろう。それに気づけたのは、線を多用せずに、黒ベタやトーンで処理をしている「TO-Y」に出会ったから。

「私はたくさんの線を見ると疲れてしまう」とわかれば、やみくもに少年マンガを恐れる必要もなくなった。
 感覚過敏を持つ子どもの苦しみは、自分が何に苦しんでいるかわからないことにもあるように思う。
(ちなみに私は感覚過敏という言葉が嫌いだ。感覚鋭敏にすればいいのに)

「TO-Y」との出会いで自分の特性に気づき、この線が見えすぎるという特性は、幼い頃からずっと続いてきたもので、私がスキだった絵は「線が少なく色が淡い」という点でみごとに一致していた。(くわしくは『わたしは、こうして“本当の自分”になる。』に書いているので、ご興味ある方はご一読を)
 
 半世紀ほど生きてきて思うのは、何かを好きになるというのはけっして無駄ではないということだ。
 THE STREET SLIDERSが好きじゃなかったら、私は絶対に「TO-Y」を読もうとしなかっただろうし、もし「TO-Y」を読んでいなかったら、私は自分の特性にも気づくことはなく、「少年マンガの中にある私を疲れさせる何か」におびえて生きていたかもしれないのだから。

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