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遺された言葉

死ぬ気がないのでNO遺書で挑みます、と
あたしは病気を公表した文面に、そう書いた。
遺書を用意するということは、
死の恐怖に屈することのような気がしたからだ。

結論から言うと、
あたしは遺書に対する捉え方をまるで間違えていたなと思う。


「頭の血管が膨らんでいます、血管が破裂すれば、死ぬか後遺症が残るかです。」

そんな状態を約1ヶ月過ごした。

ずっとこめかみに拳銃を当てられているような、
その引き金を引くのは神様のような、
その感覚は、まさに恐怖だった。

いつ死ぬか分からない、という
生まれたならば誰もが平等に与えられる不安が、
急に濃く近く感じて、何度も何度もそれをリアルに想像した。

行く先々でナースコールの位置を確認した。
今倒れたら・・・を何度もシュミレーションした。
もしも、
薄れゆく意識の中で看護師さんに一言だけ伝言を託せるとしたら、
あたしは誰にどんな言葉を残すだろう。
そして、安心して死ねると思えるのは、どんな思いが伝わった時だろう。

遺書は、

遺書は、死を覚悟するためのものだ。
死を覚悟し、死に備える。
安心して死ねるように、備える。
それは安心して今を生きることと、同じことだと、
気づいた。

1ヶ月前のあたしは、まるで死を受け入れられなかったのだろう。

死ぬのが怖くて怖くて眠れなかった夜が何度もあった。
気がおかしくなるんじゃないかと思いながら毎日を過ごした。
そんな時に気づいたことは、
あぁ、死を覚悟しなければ、あたしは生きていけないのか。ということ。

そして言葉を遺した。
あたしは、死ぬ覚悟ができたのだ。
だから今とても冷静に、
手術前夜を迎えている。


遺書を書くということは、死への恐怖に屈することなんかではない。
死を覚悟した人間が、前向きに生きるために与えられた術です。


どうか幸せに。
どうか愛されて。
あなたはそのためだけに生きているのです。


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