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「徘徊」の理由

「徘徊」という言葉。
昨今ではあまり良くない言葉として受け止められています。この理由は、徘徊がなんの意味もなくただ歩き回っている異常行動として受け止める事に様々な異論が、討議されるようになったからではないでしょうか。

徘徊

この行動の裏側に隠された、認知症の人々の思いは?

この答えを知ることになったのは
認定看護師になるための実習でした。

担当したのはアルツハイマー型認知症の方です。
中期の方で
病棟での徘徊行為が問題となっており
体幹抑制を使用していました。

10年間の物忘れ外来を経て、現在のその人が成り立っており、様々な家族の思いや、この方の今は語られない認知症への思いをカルテから読み取っていたことで、私の思うこの方の認識は
少し病棟スタッフとは違っているようでした。

夕方ごろから、はたまた時には朝から
体幹抑制をしたままどこかに行こうとする。
そもそもこの頃、この方はオムツに失禁しており、
排泄行動はオムツ交換される状態でした。

このスタッフの考える徘徊行動について私の考えはまとまっていませんでした。

まず本人が何をしたいのか、思いのままに思い切り
歩いてもらおう。

毎日毎日共に歩きました。
時間の割ける限りを共に。
約3週間。
その中で見えてきたこと。

この方の変化に目を向ける自分。
これは、見ようとしなければ見えないものです。

「見ようとしなければ
見えないもの」がある事実。

このことに気づいたことが1番の収穫でした。

歩いていく中で
掲示物に目をやり「そうか、そうか。」
扉を開けては閉める
歩く人をベンチで観察
いろんな部屋に入り挨拶
窓の外を眺めては「ああ。そうか。」
時には楽しそうに。時には辛そうに。

こんな毎日を続けていくうち
決められたルートを歩くようになり、
すれ違う看護師に声をかけ、
トイレの場所がわかるようになり
部屋のベット位置を間違えなくなる

少しずつ体幹抑制を外す時間が増え
ベンチで座る時間が増える

これがルーチン化していくことで
スタッフは安心したのか、見守るようになる

この変化をどう捉えるのか。

私が捉えた徘徊の意味は
記憶障害によって抜け落ちた失見当識を補っているということ。

毎日の習慣化した行動は、
認知症の人でも記憶に残ります。
徘徊と捉えられていたその行動は

  • ここかどこかわからないを確認したい

  • 周りの人たちは自分にとって安全な人なのか知りたい、確認したい

  • 周囲がどんなところなのか見てまわりたい

こんな思いがあったのではないでしょうか。

私たちにとってはただ無意味に見えるこの行動。
本人にとっては安心を得るための、または自分を守るための行動であったわけです。

不安や恐怖は、私達誰にでもある生理的な心理です。何かから身を守る時に必要な本能です。
これを抑制によって阻害する。

この重要な意味を知るか知らないか、目を向けるか向けないか。
これは認知症看護にとっての重要な鍵になります。

アルツハイマー型認知症の方は
中期になると言語的コミュニケーションを阻害する喚語困難、失語、錯誤などさまざまな症状が出現し、私達介護する側が、ニーズや心理を理解しにくくなります。

いわば、訴えは行動を見なければ理解しにくくなるわけです。

病院において、この行動を見る👀ということはなかなか難しくなります。

選択的に認知機能の低下が、どのような生活障害を起こしているのか?ということにPointを絞って観察することが必要になるのです。

行動心理症状(BPSD)の改善策を考える過程で この観察は、必要です。
しかし、目を向けない限り見えることはないのです。
病院というところでは
看護師は生活に目を向けるのが苦手です。
疾患についてはエキスパートですが、生活となる
目を向けてても、気づきにくいのです。

結果この徘徊と言われる行動に、制限をしなかったことでのメリット

  • 本人の活動に、メリハリができ、常にソワソワすることはなくなる

  • 活動時間が増え、歩行が安定する

  • 場所や人の認識がつき、笑顔が増えた

  • FIMでの評価で生活行動全般に上昇がみられ、ADLの向上が図れた

  • スタッフの「この人は危ない」の認識が薄れ抑制解除につながった

ただの徘徊という言葉でくくられていた本人の気持ち。これにどれだけ寄り添えるか。
徘徊だけではなくBPSD全てに思いがあるならば、私達はそこに目を向けるべきではないでしょうか。

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