短編『名前のない日』

 せっかくの休日だというのに、朝から濃い倦怠を持て余していたせいで、季節外れの厚手のコートをひっかけた頃には、太陽はずいぶんと高いところにいた。これといって用はないのに、ひとまず外気に触れたいと思い、花粉の飛び交う中にわざわざ出かけて行くのは、僕の外交的な性分のせいか。そのくせ、昼過ぎまでベッドの周りを行ったり来たりして思索に耽っている僕もまた僕であって、まったく人間というものは一筋縄ではいかない。

 国分寺駅まで自転車を漕いで、どこか逃げ込む当てはないかときょろきょろする。雑居ビルの立ち並ぶ駅までの通りは、律儀に青空を細長く切り取って見せてくれてはいるが、影が埋め尽くす地上では、いまだに冬の名残りの冷風が幅を利かせていて、切ない気持ちになる。せっかくの春らしい日、友達や彼女と郊外の緑が豊かな公園などに遊びに行って、爽快の気分に浸りたいと、こんな日の憧れはいつも同じなのに、それが成就したことはいよいよない。結局今日も、昼下がりの陰気な喫茶店のドアを叩くのだ。

 スウィングの演奏に乗せて、黒人らしい色気のある声の女性が歌っていた。BGMにジャズしか選曲しないこの店のマスターは、とても渋くて良い顔をしている。この人は、たとえば気怠い早春の一日、することがなく会う人もいない一日、どんなことを考えて、どんなことをして過ごすのだろう。

「ひとり、禁煙で」

「奥の席、どうぞ」

 奥さんはいるのだろうか。子供は。愛人は。生まれてはじめて読んだ本はどんなのだろう。Jポップとかは聴くのだろうか。

 注文したホットコーヒーはすぐにやってきて、僕は開いて間もない文庫本をためらいもなくぱたんと閉じた。なにが書かれていたのか、もうほとんど忘れてしまっていた。つまらない本だったのだと思う。砂糖を入れ過ぎたかと思ったが、程よい苦みが喉を駆け抜けた。

 窓越しの通りには、もうすでに夕暮れの色が立ち込め始めていた。行き交う人の表情は、どこかくたびれているように思えた。僕はこの名前のない一日に何か足跡を残してすっきりと終わらせたいと思い、霧が晴れない頭でひとまず、前向きな空想に浸ってみることにした。フルバンドのスウィングが終わって、ピアノが静かに歌いはじめた。〈終わり〉 

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