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J・ガーゲン「何のためのテスト?」を読む Chap.1のその2の1

Chap.1 その1はこちらから

前回は、3ページしか読み進められなかったという。でも、ほんとそれだけ濃いんだよね。後あくまでも個人の感想だから、ぜひともちゃんと本を買って読んでほしいなぁ。「あいつはこう言ってたけど違うと思うなー」から深まりが生まれると思うので。

というわけで、以下本編。

「工場メタファーと評価による統治」〜教育論

工場メタファー、一般名詞なのかな?と思ってちょっと調べてみたけれど、青山学院大学の鈴木先生のサイトに書いてあるのがちょっとおもしろかった。確かによく使われるメタファーだけれども、それが適切に運用されているか確認作業が必要そう。変に矮小化されていることもあるしね…。

このセクションでは、教育がいかに変化(変質といってもよさそう…)していったかについて語られていく。

ガーゲンは、もともとあった、全人格的な成長を重視した教育が20世紀の終わりには、「ほとんど跡形もなく消え去っていた」と話す。それは、産業界のニーズ、民主主義を求める声から来ている。
民主主義と、教育の標準化って相反しないの?と思って読んでみると、なるほど納得。民主主義下では、すべての人に教育を提供し、義務化することが大切になってくる。(みなが平等に学びにアクセスできるということね。)
そうすると、「どうやって(財源等も確保しながら)質を保証するか」が課題となってくる。
もちろん、ここでは、民主主義が悪いと述べているわけではない。ここを読んで思ったのは、「部分、部分を最適化していくことが、全体の最適化と相反することは起こりうる」ということである。つまり、ここまでの中で、誰も悪いことをしようとはしていないし、やっていることは極めて妥当・穏当なものだ。しかし、全体としてみれば「全人格的な成長を重視した教育」が「ほとんど跡形もなく消え去」るきっかけとなってしまった。

これって、実はいろいろな場面で起こっているな〜と思う。だから、わたしたちは、きっと「部分」も「全体」もどっちも見なきゃいけない。ただそれって簡単なことじゃない。でも心にピン留めしなきゃいけないことだとは思う。

Q2:部分、全体、どちらも意識する、見る、感じるためにできることはどんなことがあるか?

「工場メタファーと評価による統治」〜評価論

んでんで、そうやって作られたシステムは、果たして正常に機能しているのか?国や世界をより良いものにしているのか?ということが気になってくる。
ここで、工場メタファーが登場する。

生徒にテストをして成績をつけることは、システムが正常に機能し得ていることを確認するための、最も重要かつ明白な手段であった。(中略)こうしたニーズは、標準テストの開発によって満たされることになった。(中略)国際的な標準テストによって、地球規模の競争におけるその国の位置が示される。すぐにわかるように、こうした生産管理の考え方は、市場での地位と利益を求めて競い合う大規模な工場とまったく同じ設計になっている。

何のためのテスト?PP4ー5

つまり、鈴木先生の論にのっけると、
1)子どもたちを(入り口)
2)作られたカリキュラムを生かした指導をし、標準テストで評価することを通して(過程)
3)社会の中で働けるかどうか見定める(出口)
というモデルになっている(めっちゃ私感が入っている…。)
という感覚なのかなーと思う。(たぶん、このへんはもっと丁寧に読まないといけない気がする→宿題)

上に私はだいぶ大胆に書いたが、ガーゲンはもっとひどくて(←失礼)

能力の測定は、すべての人を単一の尺度や次元に沿って評価することができてはじめて意味をなす。

と述べている。いや、まあ、そうなのですが…。

測定は標準化とセット

いや、たしかにそうなのですが…。

こうして教育は、国家の安全保障を強化するための道具となったのである。

引用しながら、胃が痛くなった…。しかもこれ、全部おんなじページ(5ページ)に書いてあるのですよ…。スプートニク・ショックとかの文脈ね。なんか、切ないよね…。教育が、より高い組織の道具として使われるって切ないよ…。

ここまで書くのにだいたい1時間…。ちょっと時間切れなので、続きはまた書く!

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