J・ガーゲン「何のためのテスト?」を読む Chap.1のその1
というわけで、Chap.1。タイトルは
「テストの暴力的支配を超える」
「暴力的支配」ってすごくない?たぶん、violentの訳語だと思うのだけど、リーダーズでviolentをひくと、「激しい」とか「強烈な」「猛烈な」みたいな意味もあることに気づく。無理強いするとかそういうものもあるから、たぶん、「抗えない」ということを強く伝えたかったのかな…と思いながらタイトルを読んだ。
さっそく1ページ目に衝撃的な一節がある。
これは、イギリスで中等教育(イギリスでは、11歳から16歳が中等教育を受けるんだって。)を受けた10代の生徒たちが話していたことだとなっている。
試験は、学習の成果を試すものではないの?学習を妨げる試験とは何のためにあるのか?そう思うとさらに強烈なパンチをくらう。
この一文を読んだときに、「あ、この本はちゃんと読まないといけないやつだ」と思った。日本では「人格の完成」を目的におく教育。その目的は、ここに書いてあることにつきると思う。あくまで「私」に返るもの、「私」を豊かにするもの。そう考えると、「私」が行う試験は、なぜ「私」を苦しめるのだろうか?
この問に対して、ガーゲンは、新たな視点を私たちに与えてくれる。
前者は「なんだか、どこかにはありそう…」くらいに思ったのだが、他の方法との比較という視点は少なくとも私にはなかった。何かを評価する(すなわち、それが本来の目的と合致した成果をあげているかをみとる)には「テスト(質問紙的、面接的なテスト)しかない」と無意識に思っていた。しかし、この揺さぶりは、すごいなと思う。
「評価をするにはテスト以外の方法もあるよ」
センテンスにしてみれば「そりゃそうだ」と思えるが、少なくともこの一文を読んだとき、「他の方法」が具体的かつ明確には浮かばなかった。そして、それと比較するというのは、もっと考えていなかった。だから、ここは今回の読書の課題①としてメモしておきたい。
「テストによる評価を行うことで、他の目標が危うくなったり、学びと発達の豊かなプロセスが妨げられたりする可能性はないのか。」さらにガーゲンは畳み掛ける。こういう本にありがちな、「テストけちょんけちょん攻撃」である。ただ、このあと(というか、この時点で1,000文字を超えているので、たぶん、次回になるだろうが…。)、ガーゲンはテストというものの成してきたものについて丁寧に書いている(この時点で、タイトルの「Chap.1」を「Chap.1(その1)」に変えた)。
めっちゃ引用しているけど、もう1文だけ。
文字面だけ読むと、けっこう怖いなと思った。「関係に基づく」となると、「評価者」「被評価者」の関係性が評価に大きく関わってくるに違いない。意地悪な言い方をすれば、評価者にいい顔をする被評価者が評価されるといえないだろうか?ただ、この問題って、現在もある問題じゃない?
そう考えると、この本では、そこを乗り越えた「関係」が示唆されているに違いない。めっちゃワクワクする。そこには「価値づけvaluing」という考えが入ってくるとのこと。訳者さんの工夫だと思ったのは、たぶん「価値づけ」だけだと、私たち(教育に関わる人)は、「あー、発言の価値づけとか、そういうやつね」と早合点するという配慮があったんだろう。というか、自分だったら絶対そう読む!!この「価値づけ」を知るのも楽しみ。
このあとは、「ハイステークス・テスト」(人生を決めるような大きな試験)への批判的検討(どこかのページでたしか一刀両断してた…。)など、この本の見通しについて語られる。
【本日の進捗 → 3ページ】
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