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日記を書く、という習慣。

中学2年生(14歳)の1月から日記を書き始めて、今年で32歳。
いつの間にか、5年間日記は4冊目に突入していました。

つまり、日記歴17年目。けっこう長くなりましたね。我ながら、よく続いてきたなぁ、と思います。飽きっぽい性格のわたしが、唯一ずっと続けているのが日記です。

きっかけは、専業主婦の母が毎日コツコツとマメに日記を書いている姿を見て、興味を持ったことでした。時々思い出し笑いをしながら、すごく楽しそうに日記をつける母を見て、「わたしもやってみたい」と思い、母を真似して思い切って5年間日記を購入したのです。

それまで日記をつけていなかった人が、いきなり5年間日記を買う。それは一見ハードルが高いようにも思えますが、習慣がないからこそ、半強制的に「書かなければ!」と思う環境をつくり出すという意味で、良い選択だったとわたしは思っています。もし最初に買ったのが真っ白なノートだったら、きっと途中で挫折してやめていたでしょう。でも、5年間分の日付と曜日が先に書かれている日記を買ってしまったのものですから、負けず嫌いな性格のわたしは、「空白はつくりたくない!絶対ぜんぶ埋めてやる!」という謎の根性を発揮し、コツコツ日記をつけ続けたのでした。


「今年は受験生だ!」
「もう勉強に飽きてきた」
「本番が近づいて、緊張してきた」
「合格した!これで好きなだけ漫画を読める!」

みたいな中学時代から始まり、高校、大学、社会人と、わたしの歩んだ人生に沿って、日記も時を重ねてきました。特に1冊目の日記はほとんどじぶんの黒歴史と言っても過言ではないくらいですが、あれはあれで、読み物として非常に面白いです。(自分以外には絶対読ませたくないけれど。笑)

反抗期の心情って、過ぎてしまうとなかなか思い出せなくないですか?でも日記にものすごく感情的に書きなぐってある文章を読むと、「あぁ、こんなことでお母さんにキレてたっけなぁ」とか、かなりリアルに思い出せるわけで。過去のじぶんと対峙できるんですよね。これは、日記のすごく良いところだと思います。「もう2度とお母さんに大事な話はしない」とか、「また意味不明なことでお父さんに怒られた。早く家を出たい」とか、そういう類のことが過激に書いてあるんですよね。ちょっとここでは書けないほどに……(笑)。

でも、どの言葉もぜんぶ自分が書いたものだし、1つひとつの経験や感情が、いまのじぶんを形づくってきたのだと考えると、なかったことにはできないというか、ないがしろにできないというか、不思議と「過去のじぶんが考えたことも大事にしたいな」と思えてきます。まぁ、黒歴史であることに変わりはないのですが。

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そんなふうに、わたしが思春期の頃からずっと大切にし続けてきた「日記を書く」という習慣ですが、16年間のうち2回だけ、空白が長く続いたことがあります。それは、社会人2年目でうつ病になったときと、一昨年に離婚をするかどうか悩んでいたときです。

要するに、じぶんがものすごくつらかった時期ですね。どちらの時期も単純に、日記を書くという簡単な行動にもパワーをかけられなくなっていたのだと思います。


当時は生きていくのに必死で、日記どころではなかったわたしですが、今になって思うのは、「なんてもったいない!」ということです。当時のじぶんがどんなことを考えてどんなふうに病んでいったのかとか、離婚に踏み切るまでの心情の細やかな変化とか、今読めたら面白いのにな、と。

面白いというとちょっと語弊があるかもしれませんが、きっと日記読めば、当時のじぶんをより深く知ることができたはずなのに、それができないのが残念だな、と思ってしまうのです。

だからこそ今年は、その反省をふまえて、頑張って流産したこともできるだけ細かく日記に綴ることにしました。つらかったけど、この文章がいつか未来のわたしに何かをもたらしてくれると信じて書きました。

わたしは、日記はじぶんの過去をさかのぼれる歴史の資料集のようなものであると同時に、今や未来のじぶんにとってのギフトになるものだと、勝手に解釈しています。


noteはnoteで楽しいけど、こっちはある出来事や感情を切り取って表現するものとして、日記とはまったく別物だと思っています。だから、これからはどっちも続けていきたいです。

以上、わたしの大事な習慣についてのお話でした。

ここまでお読みいただきありがとうございます!普段はクライアントワークが多いので、自分の感性や気持ちと向き合い、表現する場としてnoteを活用したいと思っています。サポートいただいた分は、子どものおやつかオムツに変身するかもしれません(笑)。