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それは深夜の1本の電話からだった〜明日何が起きるかわからない


2020年のある日の深夜。
仕事で疲れて既に寝ていた私の耳元に、リビングにいるはずの夫の声がして私は目覚めた。

「○○が事故にあった。。。病院から電話だよ」

たしか、そんなような事を言っていたと思う。

まだ眠りからはっきりとは覚めていない私の脳は
なんのことか分からずに、とりあえず2階のリビングへ行き電話に出た。

どうやら、次男(当時27歳)が交通事故にあい
救急車で病院に運ばれて、その病院からの電話のようだった。次男は他県に勤めており病院も他県だったので、私の思考回路は混乱し、大きな病院であるにも関わらず、いったいどこにある病院なのかが、ピンと来ない。

電話の向こうからは、来れますか?との声。
容態を再度聞くに従い、これは重症だ。
でも手術は出来ない状態だと。。
聞けば聞くほど、私の思考は混乱を極めて、とりあえず最寄り駅を聞くと、とても私の運転では行けない場所であることだけはわかった。
夫はその1年前から病気の為、運転が出来ない状態になっていたし、勿論深夜なので電車はもう動いてはいない。

どうしたらいい?

ようやく動き出した私の思考は、"これは一旦落ち着いて病院の場所を調べて、独立してひとり暮らしをしている長男に電話して、早朝に3人で病院へ行くのが良いだろう"
と判断した。

実は私も当時は体調を崩しており、回転性めまいがようやく治ってきたところではあり、だましだまし
仕事をしていた状態だった。
一睡もしないで行動すると自律神経が乱れているので又めまいに襲われる可能性がある。だからとりあえず3時間のノンレム睡眠をしてから行動した方が良さそうだった。

さて
早朝、長男の車で高速道路を使い約1時間40分位でその病院に到着した。
案内されたのは
救急救命センター内の1番奥のスペースにあるベッドだった。
そこには別人のような状態で眠っているのであろう次男がいて、頭に包帯、顔全体は腫れ上がっていて、人工呼吸器をつけていた。
その姿があまりにも予想外で私はショックを受け
次男の名前を呼び、次男に寄り添おうとした。
が、その瞬間!
私は今まで感じたことのない感情が湧き上がり
激しい動悸と共に大粒の涙がいきなり出てその場でひとり号泣してしまった。

夫と長男はと言うとまるで無反応。
いや、今思うとあれが茫然自失と言う状態だったのだろうか。
無言で、無表情。
当然泣いてもいなかった。

その時の私には、それは違和感でしかなかった。
何故彼らは無反応なのだろうかとの疑問が湧いて、ひとり嗚咽が止まらない自分の感情はどうしたらいいんだろうかと、何故私と同じように泣いたりしないのだろう。
目の前の次男の様子があまりにも切なくて苦しくて、未だに形容出来ない我が子の姿を見たあの時の気持ち。
27才になっても母親にとっては我が子は自分の分身なのだと言う感覚を身体中で感じずにはいられなかったのだ。

そして少し遅れて次男の婚約者とそのお母さんが到着し、次男の様子を見るなり2人はやはり私と同じように号泣した。

私達は抱き合って泣いた。

ようやく感情を共有出来て、思いっきり泣いた。

担当看護師さんは若い男性で
「今、薬で眠ってますがもう少ししたら目覚めると思いますよ」
と優しく言った。

それから、色々な手続きをして自宅に戻ることになったが、私は次男から離れたくは無かった。

病院のロビーで私はいつも頼りにしている
遠方で看護師をしている親友に泣きながら電話をした。夫の病気のことでいつも話しを聞いてくれて
医療従事者であり親友である立場から冷静で納得の行く意見を言ってくれる親友だ。

その時彼女は
「頼りなさい!そばにいる誰かに頼れ!
  ひとりで抱えちゃダメだよ!」

そう言った。
私の事を良く知ってるからこその、咄嗟に出た言葉なのだろう。
彼女本人はかなり遠方にいるので今すぐ私のそばには来れないから余計にその言葉が出たのだろう。

後から聞いたら、彼女自身はそんな事を言ったのは
覚えていなかった。

でも、その時の私には本当に的確なアドバイスだった。

そうだ...誰かに頼ろう!

自宅から病院まで電車だと3時間半はかかる。
とても毎日通える距離では無い。
そして又夜に何かあっても来るのは困難だ。

とにかく私は少しでも次男のそばにいたかった。

そこで思い出したのが病院と同じ県内在住の従兄弟である。早速電話で訳を話したところ
「すぐに向かえに行くから、うちに泊まりなさい。
何泊したっていいからね」
と、従兄弟の奥さんが言ってくれて、私だけが
県内に残ることになった。

その日は何をどうしたか、覚えていない。

そして翌日から毎日片道1時間の道のりを電車に乗り次男の病院へ通った。

1日目の朝、7時頃に起床し、従兄弟宅のダイニングへ行くと、まるで和風旅館の朝食のような料理がテーブルにセッティングされていた。

お豆腐の味噌汁
白いご飯
形の良い卵焼き
シャケの塩焼き
大ぶりの梅干し
切り干し大根の煮物
それから多分...お漬物や佃煮等

たしか前日の夕食も、早朝に軽くパンをかじった位の私に美味しいものを用意してくれた筈だが、覚えていない。
覚えているのは
" そう言えば、まともに食事をしていなかったんだ..." と言うことを思い出した事を、覚えている。

本当は、どちらにしても食欲など勿論湧かなかった。

"食べる" と言う行為にまで頭が回らない。

だけど、従兄弟の奥さんが、私の為に用意してくれた料理を食べないわけにいかない。

だから食べた。
エネルギーチャージをしなければ
次男のそばに行けないし、担当医からの重い話しや
他の様々な連絡や事柄に対応出来ない。

だから食べた。

その日から毎日朝食後9時半位に従兄弟宅を出て電車に乗り、病院へ行き、救急救命センター内の次男のそばにずっといて、お昼は売店で買ったサンドイッチ等を食べて、午後も又センター内に入り次男のそばにずっといた。

毎日のように
担当医から容態の説明や、新たな検査の説明があり、看護師さん達は様々な処置をしに来てくれた。看護師さん達は皆若く、明るい。
センター内の看護師さんだからこそ、明るいのだろう。しかも次男のように若い患者であるから、ときには、「同じ年です。」と言って他愛ない会話をしてくれたりするので、ドン底にいる私の精神状態はなんとか保たれていた。

次男の婚約者も仕事の前後、毎日朝と夜、2回病院に訪れた。ちょうど私と入れ替わりのようにして、とにかく私達は次男のそばにいたかった。

私は夕方5時頃に病院を出て従兄弟宅へ戻って
夕食を頂く。
夕食はダイニングテーブルでは無く、和室のリビングで従兄弟夫婦と3人で食べた。

毎晩、色々な料理が並ぶ。
流石に揚げ物はあまり喉を、通らなかったが、それでも従兄弟の奥さんが私の為に料理して待っていてくれる事に感謝して、口へ運んだ。

従兄弟は一回り年上で、私が生まれた時から私の事を知っている。私が幼稚園位のときは海で泳ぎを教えてくれたし、幼い頃の思い出が沢山ある。
そしてその奥さんは私の3つ上で、さっぱりした性格で活動的でしっかりした女性だ。

従兄弟が夕食時にビールを飲むので時々私も勧められて飲んだ。普段からビールは好きな私だが、その時のビールは緊張を和らげる役目を果たしてくれていたはずだ。

そして毎日毎日、その日の病院での事を話すと聞いてくれた。

そして.....

脳死状態と診断された次男は、電話があった日から1か月と2週間後、目を覚ますことなく逝った。

その頃には頭の包帯はとれていたし、顔の腫れも治って、あの頃少し肉がついてきていた顎のあたりも、点滴だけだったからシャープになって、親バカだがイケメンの次男に戻った姿で旅立った。

亡くなった後も葬儀は勿論、色々な手続きがあったが私は食べた。

食べる事が、出来ていた。

体重は減ったが、食べる事が出来ていたから
思考も出来たし動く事が出来たのだ。
もしあの時、従兄弟宅を頼らなかったら、私は食べられなくなっていたかもしれない。

心と身体は連動しているから、心がズタズタになっている時こそ、身体を大切にしなければならない。
でも、そんな事に気が行くわけもないような状態に陥った時、人は食欲は湧かず、食べる行為も疎かになる。そしてやがて、気がついた頃には、身体までもがエネルギーが無くなり、心身共に落ちて行く。

私がひとりでいたらそうなっただろう。
いや、ならないほうがおかしい。

あの時、私の為に毎朝、毎晩、食事を用意してくれた従兄弟の奥さんには本当に感謝している。

次男を亡くしてから2年後に兼ねてから病気療養中だった夫をも看取り、現在はひとり暮らしとなったが、私は自分ひとりのために朝食を作る。

3食ちゃんと食べる。

昼食は、時々ランチ友達等と外食をする。

夕食も簡単にではあるが、自分のために毎日作って食べる。

明日突然何があるかわからないのは皆同じなのだ。
それならば毎日元気に大切に生きて行こう。
短い命でも幸せだったネと言えるように生きて行こう。心が折れていても、だからこそ自分の身体を大切にしよう。そうすればいつかは心も元気になるからネ。

次男を亡くした悲しみは一生私の中にあるけれど、今こうして平穏な気持ちでいられるのも
あの苦しい日々にきちんとした食事が出来たからだと、それははっきりと言える。
本当にありがとうございました。

さて....
今夜の夕食は何を食べようか。

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